「十和、くん……?」

 散々、怖い思いをした。
 苦しめられた。痛めつけられた。

 それなのに記憶の中の彼はいつも、優しく微笑んでいる。
 わたしをまっすぐ見つめながら。

「……っ」

 とん、と開かないドアに触れた。
 たまらなくなって、握り締めた拳で叩く。



「芽依?」

 ややあって声が返ってきた。
 今朝と同じように、すぐに開けてくれる。

「わっ」

 潤んだ目を見られないうちに、寄りかかるようにして抱きつく。

 爽やかなシトラスの香りが鼻先をくすぐった。

「どうしたの。今日はほんと積極的だね」

 彼は小さく笑いつつ、当たり前のように抱きとめてくれた。

 回された腕の温もりと感触がじわじわと染みてきて、胸がいっぱいになる。

「……分からなくなっちゃった」

「ん?」

「わたし、何を信じればいい……?」

 泣きそうで、ぎゅっと締めつけられた喉が痛い。
 声が震えて、視界がぼやける。

 色々な可能性をひとりで考えるしかなかった。
 ここには確かなことなんてひとつもないから。

 何も信じられない。
 嘘や毒の充満した、ふたりきりの甘いお城。

 彼に取り込まれないように必死だったけれど、それはただの、曲がったわたしの意地だったのかな。

「大丈夫だよ」

 彼は(なだ)めるように背を撫でてくれる。

「芽依が信じたいものを信じればいい。……それが俺だったら嬉しいけど」

「信じていいの? 十和くんのこと」

 彼を見上げると、屈託(くったく)のない笑顔が返ってくる。

「当たり前でしょ」

 じん、と心が(しび)れた。

『好きなんだ、芽依ちゃん』

 確かなものも信じられるものも何もないと思っていた。
 でもその言葉だけは、最初から揺るぎない真実だったのかもしれない。

「じゃあ────」

 わたしは手の中にあるワンピースに目を落とした。

 “これは何なの?”

「…………」

 そう聞こうとしたが、声にならなかった。

(もう、いっか)

 十和くんを信じると決めた。
 だったらもう、聞く必要なんてない。

「何でもない」

「……そう?」

 きっと、これが最後の機会だ。
 このワンピースについてあれこれ尋ねるための。

 分かっていたが、聞かないことにした。

 秘密を知れる最大のチャンスかもしれないが、それは彼の心と引き換えになるように思えて。