『梅ケ谷社宅』 には、朝8時半ごろ前後して二台の幼稚園バスがやってくる。

社宅のほとんどの子が通う 『梅ケ谷幼稚園』 と、田中の長女が乗り込む 『ロンシャン幼稚園』 のバスだ。


『ロンシャン幼稚園』 は早期教育に熱心で、特に英語に力を入れている。

外国人の英語教師が常勤しており、日常的に英語に触れられると評判の幼稚園である。

田中家は子どもの教育に熱心らしいと、五月から聞いたことを朝食が終わった亜久里に話すと、


「そうだろうね。田中さんとこ、子どもを私立中学に行かせたいらしいよ」


「えっ、田中さんのお子さん、まだ幼稚園だよ。早すぎない?」


「川森課長に、中学を受験するための勉強はいつから始めたかと話してるのを聞いたんだ。川森課長の娘さん、私立だからじゃないの」


川森課長が仙台工場から福岡本社に転勤になった年の秋、長女は福岡市内の私立中学を受験して合格した。

川森課長の娘さんのように、転勤先でも受験に困らない学力をつけさせたいと田中さんは思ってるんだろう、そのための準備ではないのかという亜久里に、そんなものだろうかと漠然と思った。

まだ子どものいない亜久里と明日香は、早期教育も受験にもそれほど興味はない。

子どもの教育に関心はないが、夫たちのライバル意識は明日香も多少興味がある。


「田中さんと坂東さん、同期なんだって。同期って、やっぱり気になる? その、出世とかポジションとか」


「俺は……気にならないと言えばうそになるかな。けど、昇進は実力と運だと思ってる。同期に出遅れたら、俺に運がなかったと諦めて」


「えーっ、グリさんは大丈夫だって」


「なんだよ、それ。根拠のない自信ってやつ?」


そうそう、と明日香は大きくうなずいた。

人は人、自分は自分と言い切る亜久里だから、何かをやってくれそうな気がしている。


「それで、田中さんが坂東さんをライバル視してるって?」


「あはは、その話、スルーされたかと思った。うん、そうみたい。五月さんは比べられて困ってるって言ってたけど」


「ふぅん……俺も明日から歩こうかな、田中さんみたいに。田中さん、やっぱり部長の点数稼ぎかな」


そういいながら、亜久里はいつもと同じ時刻にアシスト自転車で出勤していった。

その日の夜……


「今朝だけど、歩き通勤の人が増えてた。小泉課長と早水課長と……」


帰宅した亜久里の報告では、数人が徒歩通勤に加わったそうだ。


「川森課長は?」


「うちの課長は涼しい顔をしていたから、いつものように奥さんの送迎だろう。歩くのって、結構汗をかくんだよね」


川森課長は有栖川部長より早く出社する。

娘の送迎のついでと言いながら、それを理由に早く出社しているのではないかと明日香は思ったが、亜久里には言わなかった。


「有栖川部長は歩きの社員が増えて、健康のために良いことですねって言ってたけど、部長に気に入られるチャンスだよな」


俺も歩こうかなとふたたび亜久里は口にしたが、結局翌朝も自転車で出勤していった。

亜久里を見送った足でゴミ出しに行った明日香は、ゴミステーション前で立ち話中の数人が見えて引き返そうと思ったが、明日香へ手を振る鈴木五十鈴の姿が見えて仕方なく足を進めた。

「おはようございます」 と挨拶だけして帰るつもりが 「ねぇねぇ、聞いてよ」 と五十鈴に呼び止められた。


「美浜さんとこの源ちゃん、中間テストの英語は125番だったのに、期末テストは30番だって。五月さんが英語を教えてるんでしょう?」


「すごいですね。源太君、頑張りましたね」


「200人中30番、すごいよ」


美浜に頼まれて、長男源太の家庭教師を五月が引き受けたことは知っていた。