初めて不倫と言うものを経験したのは、健翔がまだ30の大台に乗った頃だ。

 当時は三山ホールディングスの子会社と言う事もあり、同じビルで親会社と共に顔を突き合わせて業務に従事するともなればそれなりに気を遣っていた。
 自分の顔を売り、皆に気に入られるような態度で接し、高学歴や本隊の社員であるというプライドに塗れた人間達の心をくすぐるようなセリフを必死で吐き散らかしながら媚を売った。
 それがもっともこの場で自分の立ち位置を確固たるものにする近道だと健翔は判断したからだ。

 どんな場所でも媚を売るべき、仲良くしておくべき相手と言うものはいる。
 それは偏に実権力を持つ管理職と言ったものだけではない。そんな管理職の男達すら手も出せないようなお局と言うべき女性職員こそが陰なる権力者であったりする。

 そんなある年の冬、三山ホールディングス本社で年始に行われるお餅つき大会に、子会社からは健翔一人が参加していた。
 それは日頃からの顔売りによるものか、親会社で仲良くしている社員ツテの誘いによるものだった。

 年始早々、支店では忙しなく業務に忙殺されているだろうに、こと本社に至ってはこんなふざけたイベント事が行われている事に健翔は心底大手の余裕と言うものを感じさせられていた。
 
 仲のいい親会社の社員に誘われるまま、そんなイベントに馴染んでいた最中、ホスト役である総務部のお局様が皆におしるこを振る舞っていた。


「あれ、金城君も来てたんだ?なんだ、そうなら早く言ってよねぇ!ちょっと待ってて、すぐ持ってくるから」


 そういうと、総務のお姉様はスリット入ったロングスカートを翻し給湯室まで走っていった。

 牧千房は健翔より一回り以上も人生の先を行く先輩だが、お局と言わしめる所以はやはりその外見だ。垢抜けたハイセンスな服装にその髪色、カールをかけた髪が靡くだけで漂う高級な香り。
 走るのには大凡不釣り合いな高いヒールをカツカツさせながら、何の特もない子会社の自分のような者の為におしるこを追加で作って持ってこようとしてくれる、そんな姿に健翔は胸を撃ち抜かれたような気持ちになった。


 それは健翔の側に仲のいい本隊社員の連れがいたからか。それとも、自分の外見でも気に入ってくれたのか。
 そんな勘違いにも似た想いを馳せながら健翔は、ヒール音を奏でながら戻る千房から一杯のおしるこを手渡される。

「はい、どーぞ」
「うわ……ほんとに僕なんかの為に?ありがとうございます!やばい、好きになりそうです」

「ふふ、それは遠慮しとくー」


 そんな軽口を叩き合いながら去っていく千房の後ろ姿を眺めて、健翔は席についた。
 
「お前、よくあんなババアにそんな事言えるな。ないわー」
「いやいや、ほんと恋に落ちそうでしたよ」

 毒づく目の前の社員は千房と歳も近い為か、年増には全く興味がないと健翔の趣味に吐き気すら催しているようだったが、健翔にしてみればあれほどの美魔女を放っておく男の方が理解できなかった。
 しかしあそこまで女子力が高いとなると、恋愛偏差値に関してはすこぶる低い高学歴社員では手の出しようもないだろう。
 
 せめて、そう言えない代わりにやっかみでお局だ、ババアだ等と暴言を履いて溜飲を下ろしているに過ぎない。
 あくまで自分が相手にされない側ではなく、相手にしてないんだと言う事でちっぽけなプライドを守っているのだろう。


──もう少し俺に気があると思ったんだけどな

 そんな事よりも、と。
 健翔は千房が自分の事をそれなりに気になる子会社のイケメンと認識している噂を過去に耳にしていたから、今回の自分の発言に対する反応としては微妙である事に僅かながら肩を落とした。

 あまり話す機会もないから、出来るだけインパクトのある言葉で気を引いてみたのだが、遠慮されてしまったか、と。



 そんな事があったおかげか、その後千房とは社内の道すがらすれ違う度に挨拶やら、健翔の一方的な褒め言葉を言い合える仲になっていた。
 二人の距離が一気に詰まったのは、その数カ月後。社内の昇進、勲章授与式からだった。

 同じビルに入る三山コンサルは、子会社とは言え同じ三山ホールディングスの仲間だ。
 同じビルにいると言う事もあって、子会社の社員も昇格するものは一同勲章を授与される。

 そんな挨拶の場で、高卒である健翔は細かいマナーやら、オフィシャルな言い回しがあまり得意では無かった。
 それをフォローし、助け船を出してくれたのが千房だ。


 その後千房は励ましと、余計なアドバイスを付け加えた社内メールを健翔にくれた。
 健翔もそう言う余計な一言が周りに嫌われるのだろうなと思いつつも素直に助けられた事へのお礼と、好意をメールに込めた。
 向こうも恋愛に縁のない高学歴陣と言う訳でもない。どちらかと言えば百戦錬磨の雰囲気すら感じる美魔女。

 同い年であったなら、そこそこイケメンと言われる程度の健翔では到底相手にされなかったであろうレベルの女性だ。


 健翔の胸は千房からのたった一文で、弾けるように躍っていた。


 ──社内メールだと監視されてるかもしれないし、LINE載せておくね!
 chibusa