「あのね、マリア。とても急なのですが……。わたくし、実家に帰ることになりましたの」
「ぇ……、と言うと、今日はご実家でのご用事ですか?」

 見れば後ろには四角い大きな革の鞄が置かれている。
 扉を開け放したまま、ラムダは出迎えたマリアの首根っこにがばりと抱きついた。

「あまり時間がありませんの、迎えの馬車がもう来ていて。マリア……わたくしはあなたが大好きなの。わたくしには無いものをあなたは持っている。自分は何もかも全て持ってると思っていたけれど、違ったの。そんなあなたを、わたくしは尊敬しています」

「えっ……?! ちょっと待って、私、意味が……」

「わたくしには、芯が無かった。毎日が怠くて、何のために生きてるのかなんて考えたこともなかった。ただ好きなように絵が描ければそれで良かったの。
 父の差しがねで皇城にやられた時も、正直父を恨んだわ。わたくしから生きがいの絵を描く時間を奪い、何のためにメイドなんかさせるのか……納得がいかなかった」

 腕を解くと、今度は濃紫の瞳でじっと見つめる。

「マリア、あなたを尊敬しています。でもね……友人として一つだけ言わせて? これでも、小さい頃から社交界の修羅場を潜り抜けてきたのよ。
 ジルベルト様のおそばにいれば、いつかあなたもその泥沼の中に足を浸ける日が来るわ。いつまでもジルベルト様に守られたまま、この宮殿に籠ったままでは、いざと言う時にマリア自身が困ることになる。
 皇族のそばに仕える者は人の裏を読み、百戦錬磨の狐狸たちとも渡り合う術を身につけなければならない。マリアは社交の面において、遅きに失した感がある。それにあなたは……優しすぎるの」

 たたみかけるように言葉を放つラムダの、固く閉ざした扉をこじ開けるような声。震え声は、いつの間にか涙声に変じている。