満月の夜。様々な場所で使用人達の思わぬ迎撃を受け、混乱している本邸をよそに犯罪集団の頭であるカシムはその長年にわたる経験から鍛えた鋭い嗅覚によってアナスタシアとメイが生活の場を移した別邸へと歩を進めていた。

「誰も経過を知らせにこない……か。まあ、いい。どうやらこっちが当たりのようだからな」

 別邸が間近に見える開けた場所まで来くると、ある人物の姿があった。それ見て、カシムは笑みを浮かべる。月明かりに照らされた人物は紳士風の服装に紫の髪を携えた長身の男性だった。最も特徴的なのは夜でも深紅の光を放つ両の瞳だった。

「これはこれは。オースティン家の当主、アーヴェント・オースティン公爵様じゃありませんか」

 対峙するように立ち止まったカシムが軽い物腰で声を上げる。アーヴェントは驚く様子もない。

「お前が犯罪集団の頭であるカシムか」

「おやおや、オレのことも知っているとはな。どこから情報が漏れたのか、後で確認しなくちゃな」

 笑みを浮かべるカシムをアーヴェントは表情一つ変えずに見ながら、口を開く。

「お前の手下たちは今頃、使用人達に捕まえられているはずだ」

 だが、カシムも表情を変えることなく笑みを浮かべていた。

「なるほどな。今夜の襲撃もお見通しだったか。公爵様を少し甘く見過ぎたかな」

「追い詰められているのに随分余裕だな」

 深紅の瞳が真っすぐにカシムを見つめていた。だが、相手は動じる気配はない。この状況になっても余裕の雰囲気が漂っていた。

「手下達には何一つ、組織について重要なことは知らせていない。拷問しようと、大した情報は渡らないってわけだ。オレが右腕として使っている奴もいるが、そいつも同様さ。いくらでも変わりは用意出来る」

 カシムはヘラヘラと笑いながら、言葉を続ける。
 
「要するに、オレさえ無事なら何も支障はないってことだ。そして、今オレの目の前にはオースティン家の当主様が自分から姿を見せてくれている。こんなに楽な仕事はないぜ」

 その言葉を聞いたアーヴェントは疑問を口にした。

「どういう意味だ?」

「最悪、他の奴らはどうでもいい……だがお前だけは惨たらしく命を奪えとの依頼人からのご要望なのさ。そしてその亡骸を標的である令嬢、アナスタシア・ミューズの前に差し出す。そうすれば、標的は悲しみにくれ自ら元の巣へと戻るって寸法さ」

 ニヤリ、とカシムは邪な笑みを浮かべる。それを見たアーヴェントは一言呟いた。

「外道とはお前のような者のことを言うのだな」

「はっはっは。褒めてくれてありがとよ、公爵様。それじゃ、オレも仕事に取り掛かるとしますかねっ!」

 カシムは身構えると魔法の詠唱を始める。アーヴェントとの距離は十分にある。邪魔されることはないと踏んだのだろう。詠唱を素早く終えると、魔法陣が展開される。

「!」

 するとアーヴェントの両手が後ろから何者かに強く掴まれた。深紅の両の瞳を掴まれた腕に向けると漆黒の手がアーヴェントを拘束していた。同時にカシムの笑い声が響き渡る。

「油断したな、公爵様よぉ? オレの組織のことを調べるなら、まず頭であるオレのこともよく調べておくべきだったな!」

「……!」

 アーヴェントはその漆黒の腕を振りほどこうとするがビクともしない。それどころか、漆黒の腕はゆっくりとアーヴェントの身体ごと宙に持ち上げたのだ。

「どうだ? 成す術なく、吊るしあげられた気分はよぉ!」

「『闇魔法』か……」

 アーヴェントはそれでも表情を変えることなく、呟く。カシムは調子が上がってきたようで、高笑いを上げる。

「その通り! 魔法の中でも光に次いで珍しい、闇の魔法。これがオレの切り札ってわけだ。余裕の振りをしてももう遅いぜ、公爵様よぉ? お前はこれからその身を八つ裂きにされるんだからなぁ!」

 カシムの言葉が続く。

「だが、公爵様が泣いて命乞いをするっていうなら……くくく、考えてやらないでもないぜ?」

「……」

 手振りをしながら邪な笑みが浮かぶ。だが、アーヴェントは顔色一つ変えない。それを面白くないと思ったカシムが口を鳴らす。

「ちっ。いつまで余裕の面を浮かべてるつもりだ! 自分の置かれてる状況がわかってないのか? お前の命は今、オレが握ってるんだぜ?!」

「……」

 アーヴェントは深紅の両の瞳でただカシムを見ていた。カシムは刹那、その深紅の瞳に気圧されたが歯を食いしばりながら首を左右にふってみせる。

「ああ、そうかよ! そんなに逝きたいなら望みどおり、逝かせてやるよ!」

 そう言うとカシムは再び詠唱を始める。吊るされたアーヴェントの目の前に無数の漆黒の刃が浮かびあがった。

「!」

「どうだ?! 後はオレの合図でお前は八つ裂きにされるんだぜ? ほら、さっさと命乞いをしてみせろ!」

右手を大きく振りながら、カシムが威嚇する。だが、アーヴェントは一言だけ呟いた。

「お前に乞うことなど、何一つない」

「なっ……なんだと!?」

 吊るされたままの状態でアーヴェントがカシムを睨みつける。

「こいつ……! ああ、そうかいっ。そんなに八つ裂きにされたいなら、お望み通りにしてやるよ!」

 カシムは右手をアーヴェントに向けて突きだす。すると無数の漆黒の刃がいっせいにアーヴェント目掛けて襲い掛かった。

「お前の『闇』はそんなものか……」

 そこに重みを帯びたアーヴェントの言葉が響き渡る。その瞬間、無数の闇の刃も彼を掴んでいた闇の手も煙のように消えていく。

「なんだ? 何が起こったんだ?!」

 目の前の光景を見て、カシムは動揺を隠しきれていない。自分の魔法が突如として消えたことも驚いていたが、それよりも吊るしていた闇の手が消えても尚アーヴェントが宙に浮いていることに驚いていたのだ。

「お、お前……どうして宙にっ!?」

 ゆっくりと地面に着地したアーヴェントの深紅の両の瞳がカシムを映す。

「お前に本当の『闇』を見せてやる」

 アーヴェントがそう口にすると月明かりに照らされて出来た影が広がり、あっという間に空を覆いつくし月の光さえ届かぬ深い闇が訪れた。それこそがアーヴェントの持つ『吸血鬼』の力だったのだ。

 カシムの額に汗が浮かび始めた。

「なっ……なんだこれは!? お前も闇魔法の使い手だったのか?!」

「……これは魔法ではない。本当の『闇』だ」

 淡々とアーヴェントが言葉を口にする。先ほどまで目の前にあった姿も深い闇に覆われて視認することは出来ない。

「や……『闇』……!?」

 深い闇に包まれ、一歩も動くことが出来なくなったカシムが声を震わせていた。その両足もがくがくと震えだす。

「お前は絶望したことがあるか……?」

 アーヴェントの声が深い闇の中に響く。固唾を飲みながらカシムは必死に声を上げる。

「な、何を言って……?!」

「これは……命の灯が消える寸前までの絶望を味わい、()()()()しか操れぬ『闇の力』だ」

「ひ……?!」

 カシムの目の前の闇が形を変えていく。闇の中に一際深い闇が姿を現したのだ。それはおとぎ話や伝承で知る竜のような姿を象っていく。その『異形の闇』は血のように朱い瞳を携えていたのだ。その瞳に睨まれたカシムは腰を抜かしてしまった。

「あ……ああ……っ」

 放心した状態のカシムの瞳には深い闇しか映ってはいない。異形の姿も既にそこにはなかった。だが、アーヴェントの声とその深紅に光る両の瞳が闇の中をゆっくりとカシムに向かって近づいて来ていた。

「ひ……っ!」

 アーヴェントが言葉を口にする。静かだが、強い力が込められた言葉だった。

「誰であろうと、俺の大切なものに手出しはさせん」

 深紅の両の瞳がカシムを睨みつける。カシムには先程垣間見た、異形の姿をした『闇』とアーヴェントが被ってみえたのだ。

「ひ、ひぃ……く、くるなぁぁぁ!!」

 必死の叫び声をあげたカシムはそのまま意識を失い、その場に倒れ込む。それと同時に先ほどまで周りを覆っていた闇は消え失せていた。

「外道の汚い悲鳴も闇の中に消えたな」

 アーヴェントは振り返ると穏やかな表情で背後に佇む別邸を見つめていた。騒ぎを知ることなく、健やかに眠りにつくアナスタシアをアーヴェントは想っていたのだ。

「アナスタシアには穏やかな夜を過ごしてもらわないとな」

そう呟くと背後から声が聞こえてくる。それはゾルンの声だった。

「アーヴェント様。ご苦労様でした」

 そこにはゾルンをはじめとした七人の使用達の姿があった。

「皆もよくやってくれた。礼を言う」

 七人の使用人達は深い礼をしてみせる。アーヴェントは普段の表情に戻るとゾルンに言葉を掛ける。

「ゾルン、リチャードに連絡を取ってくれるか?」

「かしこまりました。すぐに手配致します」

 カシムをはじめとした賊達は皆、捉えられ今宵の記憶は全て奪われていた。明朝、連絡を受けたリチャードが騎士団を連れて屋敷を訪れることになる。

 オースティン家にはいつもの静寂が戻る。

 こうして長いようで短い一夜は静かに幕を閉じるのだった。