灰色のローブを纏った斥候役が浴室への廊下を歩いていく。同じ場所を担当している残り二人は周りのあまりの静けさに違和感を持ち始めていた。それが聞こえていないのか、斥候役はどんどん進んでいく。

「おい、何かおかしくないか?」

「そうだよな、こんなに人の気配がしないのはおかしいだろ。戻ってカシム様に指示を仰いだ方が……」

 そんな戸惑う二人に斥候役が振り返る。

「とりあえずオレ達は浴室に行くんだ」

 そう呟く。すると廊下の奥から何かの音が聞こえてくる。それは浴室から聞こえて来ていた。音がするということは誰かがいるということだ。疑問を抱いていた二人もその音を聞いて顔を合わせて頷き合う。斥候役が浴室の扉を開くと、中からは湯気が立ち込めていた。

「湯気……?!」
「誰か風呂に入っているっていうのか? ……お、おい?」

 斥候役は黙って浴室に入っていく。それを他の二人も追う。三人が中に入ると突然、入って来た扉が音を立てて閉じた。驚いて二人が扉を開けようとするが、ビクともしない。

「な!? 一体どうなってるんだ!」
「あ、開かないぞ?」

 そんな二人の耳に女性の声が聞こえてきた。

「あらあら、今来たばかりですのにもうお帰りになるのですか?」

 扉の前に立っていた二人が振り返ると浴室にはメイド姿の女性の姿があった。だが、メイド服にしては肌の露出が高く、更に胸元の一部は大きくはだけて今にもこぼれてしまうのではないかという在り様だ。

 刹那、それをみた賊の二人は生唾を飲む。

「使用人か……?」

「な、なんでこんな所に……いや、それにしても色っぽいな……」

 二人は疑問に思いながらもその鼻の下は伸びていた。

「わたくしはラスト。歓迎いたしますわ、お客様」

 ラストはいつもよりも艶やかさを増した表情で二人に挨拶をする。すると湯気の奥から斥候役が現れ彼女の隣に立つ。

「お、お前何をしているんだっ?」

 一人が我に返ったようで斥候役に問いかける。だが、相手は何の反応もしない。

「おい、聞いてるのか?」

 再び声を掛けると隣にいたラストが斥候役の纏っていた灰色のローブの頭の部分を取ってみせる。すると斥候役の額には紫の光を帯びた紋章が刻まれており、虚ろな目をしていた。

「無駄ですわ、この子犬はもう私の言いなりなのですから」

「な、どういうことだ!?」

 賊の一人が三度声を上げる。妖しい笑みを浮かべながらラストが左手で隣に立つ斥候役の頭を撫でてみせる。

「この子犬が斥候を務めているのはわかっていました。なので、私の『権能(ちから)』で言うことを聞かせたのですわ。この子犬には今、幻影が見えておりますの。そしてその幻影通りに屋敷の状況を報告させて……こうして餌である貴方がたをこの屋敷に引き込んでもらったというわけですわ」

「なっ? そんなことが!? おい、お前も何か言えよ」

 自分の隣にいるもう一人に声を掛ける。だが、その賊はガクッと膝から崩れる。その拍子に頭を覆っていたローブが取れると、斥候役と同じ紫色の紋章が額に浮かびあがっていた。

「ああ……艶やかな身体だな……包まれたくなる……」

「お、おい! しっかりしろ!」

 紋章が浮かびあがり、呆けた仲間の肩を揺さぶって声をかけるがまるで聞こえていないようだ。その様子を見ていたラストがふふふ、と笑い声をあげる。

「あらあら、どうやらもう一人の方には私の『権能(ちから)』にあてられてしまったようですわね」

「お、女! お前、魅了系の魔法の使い手か……!」

 正気を保っている賊は身構えながら、ラストの方を睨みつける。

「あら、何かされますの?」

「馬鹿め、隙を見せすぎだ!!」

 賊が詠唱を始める。ラストはそれをただ見つめていた。紫色の魔法陣が賊の足元に浮かびあがり、紫色の雷のようなものがラストに向けて放たれた。湯気でよく見えないが、ラストの首がガクッとうな垂れたのを賊が確認する。

「どうだ! オレはこの組織の中では魅了系の魔法の使い手で通っているのさ! 魅了系は先に術をかけた方が有利なのはわかっているんだ。これでお前はオレのいいなりだ……へへへ、仕事にかかる前にこいつらには悪いがオレだけその身体でいい思いをさせてもらうぜ」

 余裕を浮かべつつ、興奮した賊が勝ち誇った笑みを浮かべる。下心が透けて見えるようだ。

「ふふふ、気持ちのいい魔法ですわね。それにその感情もとても美味しそうですわ」

「?!」

 ラストのうな垂れた首がゆっくりと元の位置に戻る。彼女はまるで何もなかったかのように賊の方を見ていた。

「ば、馬鹿な!? 強力な魅了魔法だったはずだ……何故、効かないんだ!?」

「ふふふ。私に魅了系の魔法は効きませんわ」

「ど、どういう意味だっ」

 ラストは猫のように身体をしなやかにくねらせると言葉を続ける。

「何故なら、私自身がその魅了魔法の根源のようなものなのですから」

 妖艶な笑いを添えてラストが一歩前に踏み出す。先程まで興奮していた賊は気圧されるように一歩後ろに退く。

「お、お前は一体……」

「ふふふ。私は『色欲』を司る精霊、ラスト。一夜にも満たないお付き合いでしたけれど、久しぶりに気持ちが昂りましたわ。そのお礼と言ってはなんですけれど、お返し致しますわね」

 ラストは右手の人差し指と中指を唇に添えると、投げキスをする仕草をする。すると先程賊が使用した魔法と同様の紫の雷が賊を貫いた。ガクッと賊はその場に崩れる。額には他の二人と同様の紋章が浮かびあがっていた。

「ふふふ。人間も魔族も私にとっては子犬同然ですわ。これ以上、手が出せないのは少々歯がゆいですけれど……これもご主人様のご命令ですから仕方ありませんわね」

 湯気が辺りを包み込んでいく。

「アナスタシア様とご主人様の恋路を邪魔する悪い子犬達には退場してもらいましょうね。さて、私の役目はこれにて終了ですわね。後は他の六人にお任せ致しますわ」

 妖艶な笑い声が浴室に響き渡り、湯気がゆっくりと晴れていく。そこにはもう誰の姿も見当たらなかった。