今回はシェイド王国で開かれた終戦記念祝賀パーティーに参加したハンス達がリュミエール王国に帰って来てからのお話。

 ハンスは王の間から出てくると扉の両側に立つ兵士達を睨みつけた後、ギリっと歯に力を込めながらその場を後にした。自分の執務室までの長い廊下を不満を呟きながら歩いていく。

「屈辱だ……オレがこんな扱いを受けるのはもう我慢出来ん……っ」

 湧く怒りが溢れ出した途端にハンスは立ち止まると、左手で壁を力強く叩く。廊下に大きな音が響く。幸い使用人達の姿もない。誰にも見られることはなかった。溜飲は下がることはないようで、大きなため息を吐く。

「アナスタシアめ……!!」

 ハンスは歯に力を込めながら、右手で顔を覆う。指の間からは険しい表情が垣間見える。祝賀パーティーでのアナスタシアの態度に怒りを覚えているようだ。ふと今から戻る通路ではなく、ちょうど立ち止まった場所から伸びる別の通路の方に目を向ける。

「……図書室か……レオの奴も昔から病弱のくせによく籠って本を読んでいたな……」

 余計な記憶を思い出した、と言わんばかりにハンスは口を鳴らす。だが、その時ハッとする。

「……そういえば昔レオが読んでいた本の中に……っ」

 ハンスは執務室に戻る前に王城の図書室へと足を向けるのだった。所蔵されている沢山の本の中から、子供の時の記憶を元にハンスはある一冊の本を見つけ出す。その本をめくっていくとあるページで手が止まる。

「……これだっ」

 確信を得た表情が浮かんでいた。その本を強く握りしめ、ハンスは図書室を後にした。自身の執務室の前まで戻って来たハンスは部屋の前の兵士を遠ざけ、部屋の中に入っていく。そこにはハンスの帰りを待っていたレイヴンの姿があった。

「殿下、いかがでしたか……?」

 腰を低くしながらレイヴンがご機嫌を伺う。ハンスは王の間でのことを思い出したようで、執務机の椅子に荒く腰を降ろしながら右手で机を思い切り叩く。

「もう、うんざりだ……! 祝賀パーティーに参加した時の報告に伺ったが父上や母上の口から出る言葉は、やれ失礼はなかったのかだの、やれフレデリカの振る舞いに問題はなかったのか、とオレのことを侮辱する言葉ばかりを並べられたのだぞ!? オレはこの国の王太子として参加してやったというのに!」

 再び、机を思い切り叩く。レイヴンも更に腰を低くしながらハンスの溜飲を下げようと色々と声を掛けてくる。しばらくして、少し落ち着いたハンスはレイヴンの方を向く。

「フレデリカはどうしている?」

「帰って来てからは気を落としているようです」

 アナスタシアに取られた態度と、あの場で沢山の者の目の前で見せてしまった失態で流石のフレデリカも参っているようだ。だが、アナスタシアへの憎しみが強まったことは事実だ。

「くそ……『吸血鬼』公爵にアナスタシアめ。よくもオレのフレデリカを笑いものにしてくれたな……」

 完全な八つ当たりだが、ハンスにはそれが真実のようで机に置いた拳に力を込めていた。話題がアナスタシア達のことになった所でレイヴンがハンスの元に近づいて来た。

「アナスタシアのことですが……殿下もあの時周りの者達の声をお聞きになりましたでしょう?」

「ああ。皆、口々にアナスタシアのことを評価しているようだったな」

「あの後、私の方でも調べましたが……やはりアナスタシアが『鍵』のようでございます」

 ほう、とハンスが呟く。

「シェイド王国ではオースティン公爵の婚約者となったアナスタシアには幸せを呼ぶ力があるという噂が広がっているとのことです。やはり我々の推論は間違っていなかったということです。とはいえ……それでも噂と推測の範疇からは後一歩抜け出せないもどかしさは残りますが……」

 執務机の前に歩いてきたレイヴンは言葉を濁していた。そんな彼の目の前にハンスは一冊の本を投げて寄越した。それは王城の図書室から持ち出したあの本だった。埃をかぶり、所々がボロボロになっていた。かなり年季の入った書物のようだ。

「これは……?」

「この世界の古い伝承について書いている本だ。精霊や魔物や竜、そういった類のな」

「それはわかりますが……何故、この本を?」

 投げられた本を拾い上げて、数ページめくり本に記してある内容に目を向けていたレイヴンが不思議そうな表情を浮かべていた。

「……最後の項だ」

 身体を執務机の正面に向け、机の上に両肘を乗せ顔の前で両手を組みながらハンスがレイヴンに促す。その表情は先ほどまでと違い、冷静でいてどこか邪なものを感じさせる。

「最後の項……なになに……『神の愛娘』……?」

 その本の最後のページにはその言葉が見出しとなっていたのだ。

「読んでみろ」

 再びハンスに促されたレイヴンはそのページを読み上げていく。

「この世界には稀に神に愛された少女が生を受ける。その少女は世界に幸せを導く力を生まれ持ち、その口から紡がれる唄には神の祝福が宿る……!?」

 本を強く握りしめながら、レイヴンは顔を上げてハンスの方を見る。彼もそのページの内容は把握しているようだ。

「どうだ、レイヴン。お前の見解は」

「……そういえば、アナスタシアは昔から唄が好きでした。兄上たちもよくその唄を褒めていました。私達は耳障りだったために禁止にしていましたが、隠れて唄っているのは知っていました。では、まさか……?!」

「そのまさかなのだろうな……ここまで証拠が揃っていてのその伝承。お前の言っていたことは正しかったということだ。鍵はやはりアナスタシアだったのだ」

 ハンスの握った両手に力がこもる。

「アナスタシアこそが『神の愛娘』と見て間違いない。だからこそ、それを失った我が国には魔獣がはびこるようになったのだ。つまりオレ達がこんな屈辱を受けるのも、被害を受けたのも全てはあのアナスタシアのせいだったということだっ!」

 ハンスの発言は自分達のことは棚にあげ、全ての責任をアナスタシアに押し付けるものだった。

「つまりオレ達はみすみす、シェイド王国に『神の愛娘』を渡してしまったということだ……アナスタシアさえ戻ってくればリュミエール王国で起こっている悪い事柄は全て収まるというのになっ!!」

 悔しそうにハンスは歯を食いしばっていた。まさか自らが捨てたアナスタシアがそんな力を持っていたとは思いもしなかったからだ。その時、レイヴンは俯きながら何かを考えていた。

「……ハンス殿下」

「何だ」

「この部屋の周りの人払いは済んでいますかな?」

「ああ、一応済ませてはいるが……何だ急に」

 眉間にシワを寄せながらハンスがレイヴンに尋ねる。レイヴンは俯いていた顔を上げる。その顔には今まで見たことのないほど邪悪な表情を浮かんでいた。刹那、ハンスは気圧されるかと思ったほどだ。

「ハンス殿下は、お父上である陛下のことはどう思っておりますかな」

「再三、口にしているだろう? 何度も言わせるな! オレはこれ以上の父上の言動には我慢出来ん!」

 ニヤリ、とレイヴンは笑みを浮かべて見せる。

「では……我慢出来ないとしたら何をお望みになりますかな?」

「そうだな……はっきり言って父上には王位から退いてもらい隠居でもしてもらいたいくらいだっ。そうすれば王太子であるオレが次の王になるのだからな」

「そうでございます。そうすれば我が娘であるフレデリカは妃となり、殿下はこれまで以上の力を手に入れることが出来ます」

 そこまでレイヴンの話を聞いたハンスは大きくため息を漏らす。

「それが出来ればここまで苦労はしていないだろう!? 第一、父上の身体はすこぶる快調で病気の気配もないのだから万が一でもそんなことは起こるわけがない」

「……別に病気でなくともいいのですよ、殿下」

「何?」

 レイヴンは表情を変えずに淡々と話を続ける。

「今、リュミエール王国の議会は私が所属する改革派が力を持っているのをご存じですかな」

「……ああ、確か改革派の主張はシェイド王国との関係は『協力』ではなく『従属』にするべき、というものだったな。それでひっ迫した議会で父上は矢面に立たされているというのだろう?」

「はい。その通りでございます」

 だからどうした、とハンスは虫を払うように右手を動かしてみせる。彼には議会のことなど関係ないという態度が見受けられる。元々王太子であるはずのハンスは政治には疎かったのだ。

「もし、その状況で陛下の足元を揺るがすような事態が起こればどうですかな?」

 邪悪な笑みをレイヴンが再び、浮かべてみせる。そこまでくるとハンスにも理解出来たようで、執務机に両手を添えて立ち上がる。

「まさか、レイヴン。お前には何か策があるというのか?!」

「はい。その通りでございます、殿下。私めのやり方なら、殿下の希望を叶えながらアナスタシアを手に入れることが出来るでしょう」

 レイヴンのその言葉を聞いたハンスは思わず生唾を飲む。目の前にいきなり自ら内に秘めていた野心を叶える方法がぶらさげられたからだ。

「して、その方法とは一体どんなものだ!?」

「お耳をお貸しください、殿下」

 レイヴンはハンスの耳元に顔を近づけ、『あること』を告げる。

「何?! それは確かなのか?!」

「はい。既に私共の調べはついております。明かす時を待っていたくらいですからな。あとは殿下のお力添えさえあれば……」

 その言葉を受けて、ハンスは再び生唾を飲む。彼にとってこれ以上の良い条件と状況はなかった。既にハンスはレイヴンの掌で踊らされていたのだ。

「……いいだろう。お前の策に乗るぞ! そしてオレは……王になってやる!!」

 ハンスの口から思わず高笑いが上がる。ハンスは完全にレイヴンの思い通りに動いていた。

 レイヴンはミューズ家の屋敷に戻ると、これから起きることを妻のクルエと娘のフレデリカに説明した。もちろんアナスタシアが『神の愛娘』であるという点は伏せていたが。

「お父様、最高だわ! それなら今まで無視されてきた私の手紙もアナスタシアは読んでくれそうね。早速、手紙を書かなくちゃっ」

 嬉しそうな笑い声を上げながら、フレデリカは自分の部屋へと駆けていく。残ったクルエは心配そうな表情を浮かべていた。

「あなた、本当に大丈夫なのですか? ()()()()が明るみになるなんてことは……」

「心配するな、クルエ。ハンス殿下は既に私の手中に落ちたのだからな。後はこの国を私が影で操る野望を叶えるだけだ。お前もいい暮らしが出来るぞ」

「ふ……ふふふ。そうですわね! またアナスタシアをボロボロに出来ると思ったら楽しくなってきましたわ」

 クルエも気持ちを良くしたようで、笑いが止まらないようだ。その隣でレイヴンは低く呟く。

「……アナスタシア、お前は再びミューズ家に戻ってきてもらうぞ。そしてその命が尽きるまで私達の為にさえずってもらうとしよう」

 暗い雲がリュミエール王国、そしてシェイド王国を包み込もうとしていた。