リュミエール城内の廊下を早足で急ぐミューズ家現当主レイヴンの姿があった。王太子であるハンスの執務室へと向かっているようだ。手には大きめの封筒が握られている。更にぶつぶつと小言を呟いていた。

「まさか使用人共がメイに仕事のほとんどを丸投げしていたとはっ! おかげでメイがいなくなった途端に影で怠けだす奴らも出てくる始末だ……くそ……!!」

 勢いでメイに暇をだしてから使用人達の質もガクッと下がったようでレイヴンの機嫌は更に悪化していた。妻であるクルエの前でも苛々した態度をみせ、時には強く当たる。普段は可愛いフレデリカのおねだりも嫌な意味で耳に残るようになっていた。それでも愛娘は可愛いと思っているのだから始末が悪い。

「だが……今は()()()()を一刻も早く殿下にお伝えしなければっ」

 手元に握る封筒を見つめながらレイヴンはハンスのいる執務室へと急ぐ。目的の場所につくと執務室の前にいる兵士に用件を伝える。兵士は執務室の扉をノックすると、中からは声を荒げたハンスの声が聞こえてきた。

 外交官でもあるレイヴンが訪ねてきたと兵士が口にすると、ハンスが直接扉の前まで歩いてくる。

「……お前はしばらく何処かに行っていろ。レイヴンとは大事な話がある」

 兵士は一礼すると持ち場をあとにする。ハンスはレイヴンの方を睨むように見つめると、執務室の中に迎え入れた。綺麗な顔立ちをしているハンスの目元には若干のクマが出来ていた。溜め息を吐きながら執務机の椅子に座りこむ。

「だいぶお疲れのようですな、殿下」

「だいぶじゃない、かなりだっ……まったくオレも暇じゃないんだ。お前が大事な話があるというから時間を作ってやったんだぞ。ああ、フレデリカに会いたいものだ……」

 ハンスの言葉を受けてレイヴンは苦笑いを浮かべていた。妃教育が上手くいっていないフレデリカとは碌に夜会へも一緒にいけずにいることがハンスにとってみればストレスなのだろう。だが、それでもフレデリカへの愛を口にしているのだからこれも始末が悪い。

「さ、早速ですが殿下にはこれを見て頂きたいのです」

 レイヴンは腰を低くしながらハンスの執務机の前まで歩いてくると手にしていた机の上にそっと置いた。

「なんだ、これは?」

「どうぞ、中を見て頂ければと……」

 フン、と鼻で大きな息を吐きながら封筒の中の書類にハンスが目を通す。それは外交官としての自分の職権で手に入れた国境を行き来する者の資料だった。

「国境を越えた者のリストか……これがどうしたというんだ?」

「その資料の一番下にアナスタシアがシェイド王国へ嫁いだ日の記録がございます」

 そう言われたハンスは持っていた資料を見つめる。確かにリュミエール王国からシェイド王国へ国境を越えたアナスタシアの記録が記してあった。

「で? これが何だと言うんだ、レイヴン」

「実は……ここからの話は他言無用でお願いできますかな」

 改まって真剣な表情を浮かべるレイヴンの雰囲気を感じ取ったハンスが怪訝そうな表情で頷いてみせる。

「ああ、わかった」

「……最近、我がミューズ家の事業が上手くいっていないことは殿下のお耳にも入っているでしょうな」

「ああ。騎士団からの報告も受けている。魔獣の被害にあって大変そうだとは思っていたが……」

 額に掻く汗をハンカチで拭き取ったあと、レイヴンは深呼吸をするとハンスに語り掛ける。

()()()()()()……なのです」

「?」

 ハンスは首を傾げて見せる。話の流れからアナスタシアの名前が出ることが奇妙に思ったのだろう。レイヴンは目を見開きながら、さらに言葉を続ける。

「アナスタシアが国境を越えて、シェイド王国に行ってから我がミューズ家は魔獣の被害に遭い始めたのです……!」

「……何を言い出すかと思えば、馬鹿馬鹿しい。レイヴン、お前は自分が言っていることがどれだけ可笑しなことかわかっているのか?」

 呆れたようにハンスはレイヴンを見る。だが、レイヴンの表情は必死そのものだった。拭き取った汗が再び額に滲んでいた。

「お渡しした資料の中に、被害に初めてあった時の日付が記してありますっ」

 是非ご覧ください、という手振りにハンスは別の資料に目を向ける。確かにミューズ家の商隊の馬車が魔獣に襲われた日付はアナスタシアが国境を越えた翌日のものだった。

「確かに……お前の言う通りアナスタシアがシェイド王国に行ってから魔獣の被害に遭ったのはわかった。だがそれがアナスタシアのせいだと言うには浅慮すぎ……!?」

 何かの冗談だろうとハンスが手振りをしながら言葉を口にするが、途中で何か思い当たることがあったかのように口元に右手を添えて黙り込む。

「殿下……?」

 ガバッとハンスは椅子から立ち上がると机の上に山積みになっていた騎士団の報告書を粗雑に扱いながら自らが望む資料を探し当てた。それは魔獣の出現した時の報告書の束だった。ハンスも真剣な顔をしながら捲られた資料の一番最初の書類に目を向ける。

「……まさか……これは……っ」

 更にレイヴンが持参した資料を左手で力強く握り、二つの書類を見比べるように見つめる。額にはうっすらと汗が浮かび始めていた。

「最初の魔獣の被害の報告日もアナスタシアが出国してから……だと?!」

 ハンスは強い力で二枚の書類を執務机に叩きつけながら呟く。レイヴンの話に首を傾げていた時の表情とは明らかに違う顔つきをしていた。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、全ての現状を物語る記録が一つの推測へと足を向けていたからだ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……というのか」

 レイヴンも同じ推測に至っていたようで、汗を拭きとりながら静かに頷いた。さきほどレイヴンが言った台詞をハンスも吐き捨てる。

「このことは他言無用だ、レイヴン……絶対に父上達の耳には入れるな……っ」

 たかが推測。だが、それを物語る記録が存在していること自体がハンスにはまずい状況を作り出していた。邪魔者だったはずのアナスタシアに婚約破棄を突きつけ、レイヴンと共謀してシェイド王国の貴族へ嫁がせたハンスにしてみればこの推論自体が自らの身を滅ぼしかねないものだったからだ。

 ただでさえ、自分が管轄している領地で流行り病が出ているということもシリウス王には報告していない。それに加えてこの推論。王の耳に入れば何を言われるかわかったものではない。

 とは言え、この推論はこの場にいる二人だけが知りうるモノ。状況証拠だけ、言ってみれば『机上の空論』でしかないのだ。大きく深呼吸をしてハンスは息を整える。額の汗を拭きとり、いつもの調子を取り戻して椅子に腰を降ろす。

「改めて考えてみれば本当に馬鹿馬鹿しい話だ。レイヴン、お前もそう思うだろう?」

「は、はい。殿下の仰る通りでございます」

「だが……この溜飲どうやって下げてやろうか……」

 たかが小娘一人のことで振り回されている自分が気に食わないハンスは執務机の端に置かれていたある手紙に気付く。それは今度シェイド王国で開かれる終戦記念祝賀パーティーの招待状であった。

「……! レイヴン、良いことを考えたぞ」

「どのようなことでございましょうか?」

「お前とフレデリカを連れてこの祝賀パーティーに参加する。魔族共と顔を合わせるなど、と今までは色々な理由をつけて欠席していたが今回は足を運んでやろうというのだ」

 ほう、とハンスの言葉を受けてレイヴンは顎のあたりに手を添えながら唸る。

「同じ魔族の中でも『吸血鬼』と呼ばれ蔑まれている公爵の元に嫁いだアナスタシアはさぞ虐げられた毎日を送っているだろう。その絶望に満ちた顔を直接拝んでやろうというのだ。そうすればここまで上がったオレやお前、そして愛しのフレデリカの溜飲も下がるだろう?」

「なるほど。確かに……それは中々楽しそうなお話ですな。溜飲も下がり、私どもの推論も机上の空論だということに確信を持てますな」

「だろう? 早速手配をしろ。先方には特に連絡はいらん。リュミエール王国の王太子が直々に足を運んでやるのだ。少しは驚いてもらわねばな」

 ハンスはニヤリと笑みを浮かべながら招待状を紙切れ同然の扱いで再び執務机の端へと投げ捨てる。

「かしこまりました。フレデリカもさぞ喜ぶことでしょう」

「ああ、今から楽しみだな……」

 ミューズ家に帰ったレイヴンはこのことをフレデリカに話した。最初は魔族の国に行くことには抵抗があったフレデリカだったが、ハンスと一緒に出掛けられると聞いた途端に最近の苛々が吹き飛んだように笑みを浮かべていた。同時に、アナスタシアの悲壮な顔を見られると知ると更に喜びは倍増したようだった。

「ああ、ハンス様と一緒に出掛けられるのね。なんて素敵なお話なのかしら! それに吸血鬼公爵に虐げられてやせ細って醜くなったアナスタシアの顔も早くみたいわっ」

 この勢いに任せてフレデリカはとびきりの衣装や装飾品をレイヴンにおねだりする。気をよくしたレイヴンもそれに応えるのだった。