可愛い執事フェオルが御者を務める馬車が快適に平地を進む。出発してすぐにアナスタシアの対面に座るゾルンからシェイド王国へ向かう道のりの説明があった。まずはリュミエール王国の国境まで行き、そこから地図上ではかなり離れた場所にオースティン家の邸宅はあるという。

(素敵なエスコートで手を引かれて馬車に乗ってしまったけれど……先方は私がフレデリカではないことは知っているのかしら……)

 座っているアナスタシアは気が気でなかった。元々、この縁談には拒否権はなかった。話を叔父夫婦から聞いた時には先方には了承の手紙が送られていたのだから。両国の関係を良いものにするための縁談、しかも王命ということであればリュミエール王国だけでなくシェイド王国の国王からもオースティン家には書状が送られたことだろう。その中にミューズ家の娘とだけ書いてあったのであれば、という不安がアナスタシアにはあったのだ。

(もし先方がフレデリカのことを調べていて、フレデリカとの縁談を望んでいたら……)

 不安が次第に大きくなり、アナスタシアは俯くことしか出来なくなっていた。そんな時、そっと低めで優しい声が掛かる。

「ご心配には及びませんよ、()()()()()()様」

 その言葉で俯いていた顔が自然に上がり、塞がっていた口が開く。

「……私の名をご存じで……?」

「ええ。私どもがお迎えに上がったのは間違いなく、アナスタシア様。貴方様です。私どもの主人が縁談の相手に望んでおりますのも貴方様で間違いありません」

「! 良かった……ずっとそれが心配だったんです」

「そうでしたか。もっと早くご不安を解消して差し上げればよかったですね。こちらの配慮不足で申し訳ありませんでした」

「いえ、そんなことはありません。私の方こそ、黙っていて申し訳ありませんでした」

 ゾルンは優しく笑いかける。聞くと今回のハンス王太子との婚約破棄の話、ハンス王太子とフレデリカの婚約のことも既に耳に入っていると優しく説明してくれた。

(先方は耳が早いのね……婚約破棄の話は昨夜だったはずなのに。でも……ゾルンさんの優しい笑顔は見ていてすごく安心する)

 緊張が解れたアナスタシアは自分の方からも気になっていることを尋ねてみることにした。

「あの、いくつかお聞きしても宜しいでしょうか?」

「構いませんよ。何でもお聞きください」

「その……アーヴェント様についてなのですが……」

 ゾルンはああ、と小さく呟くとアナスタシアが直接聞きにくいことを察してくれたようだ。クルエの話では周りから吸血鬼として恐れられていると聞かされていたからだ。

「私どもの主人についてのお噂について、お聞きになられたのですね」

「はい……」

「確かに私どもの主人は魔族の中でも珍しい赤い両の瞳を持っておりますが、れっきとした魔族でいらっしゃいます。噂が独り歩きしてしまったのでしょう。とても良く出来た方ですよ」

「そうでしたか。ご説明、ありがとうございます」

 アナスタシアはほっと胸を撫でおろす。自然と次の質問を口に出来た。

「お仕事はどんなことをしてらっしゃるのですか?」

「一言で言えば高利貸しのような仕事をしております。相手に融資をして、その成果の一部を頂く。そういった商いで成功を収めております」

「よくわかりました。ありがとうございます」

「アナスタシア様にはゆっくりとアーヴェント様のことを知ってくださると私達も嬉しい限りです」

 ゾルンの配慮のおかげで会話が弾む。アナスタシアも自然と笑顔が多くなってきていた。そんな時、車内から御者に声を掛けるための小窓が開く。

「ゾルン様、そろそろリュミエール王国とシェイド王国のこっきょうに到着しますぅ」

「では、フェオル。手続きはお願いしてもいいですか?」

「……すぅ」

「フェオル」

「はい、寝てません。お任せください」

(国境……もうそんな所まで来ていたのね。この先はシェイド王国……お父様達はお仕事で何度も足を運んでいたけれど私は生まれて初めて……やっぱり緊張する……)

 国境の関所に到着して一度馬車が止まる。外ではフェオルが兵士と話をしているようだ。それを待つ間に再びアナスタシアの緊張が高まっていた。

「てつづきが出来ました。出発しまぁす」

 小窓からフェオルの声が聞こえ、止まっていた馬車が再び動き出す。ここからはもうシェイド王国の領土だ。何事もなく手続きを終えたことでアナスタシアは小さくため息を吐く。緊張していた肩の力が一気に抜けていく。

(あ……ほっとしたら眠くなってきちゃった……いけないのに……瞼が重く……)

 アナスタシアの目の前が暗くなる。これまでの疲れと緊張で眠ってしまったのだ。だが、それも僅かな時間だ。はっと我に返り、目を開く。すると何かの視線を感じた。

(……?)

 正面にある小窓からフェオルが背負っているクマのぬいぐるみの閉じているはずの瞳がぱっちりと開いてこちらを見ていたのだ。

(え……?!)

 驚いたアナスタシアは眠気眼を何度か手でこすり、もう一度小窓に目を向ける。当たり前だが、そこには眠っている可愛いクマのぬいぐるみの顔が見えた。

(……気のせいだったのかしら)

「アナスタシア様、どうかしましたか?」

 アナスタシアが驚いた顔をしていたのに気づいたのか、ゾルンが声を掛けてきてくれた。

「あ、いえ。何でもありません」

「お疲れだったのですね。ですが、そろそろ邸宅に到着致しますのでもうしばらくお待ちください」

「え? もう……?!」

 不意に居眠りをしてしまったとはいえ、それは僅かな時間だったはずだ。国境を越えて間もなくだというのにアナスタシアを乗せた馬車は目的地のオースティン家の領地に足を踏み入れていたのだった。