執事長のゾルンと名乗る男性はレイヴンの近くまで歩いてくると立派な木製の鞄から書類を取り出す。おそらく支度金などの内容が記してあるものなのだろう。

「ミューズ家当主、レイヴン・ミューズ様ですね。多忙な主人の代わりに私が参りました。こちらが婚約の証書になりますので確認してサインを頂けますでしょうか?」

 かなり長い書類だ。一般的な婚約についての誓約書なら平均的な用紙一枚、多くても二枚だ。だが、どうみても一枚の用紙は長く、書いてある内容も多いようにアナスタシアの目に映っていた。

「いやはや、なかなかに内容が沢山ですな。とても一度には読み切れません。サインだけ書いて後で目を通しても宜しいですかな?」

「本当はすべてに目を通して頂きたい所ですが公爵様がそう仰るのであれば、それで構いません」

 アナスタシアがそっと叔父レイヴンの顔を見ると、かなり面倒くさいと言わんばかりの表情を刹那浮かべていた。手元でサインのための万年筆を用意しているゾルンは気づいていないようだ。

 何枚かに綴られた証書の最後にレイヴンがサインをする。ゾルンは言葉を付け加え、手元の控えにも同じサインを求める。しぶしぶ、受け取る証書と控えという二組の証書にサインが記載される。

「ありがとうございます。これで婚約は成立となります。では、お約束の支度金をお持ち致します」

 頃合いを伺っていたのか、手前の馬車から御者と思われる者が降りてきた。それはゾルンと同じ執事服を纏った幼い少年だった。魔族の特徴である細い瞳孔、尖った耳。そして背中には瞳を閉じて眠る茶色いクマのぬいぐるみを背負っていた。クマの頭には青いナイトキャップが被せられている。

(可愛い……でもあの子もオースティン家の執事なのかしら……)

 執事の少年は後ろの馬車の中から大きなトランクを取り出して抱えると、ゆっくり、ふらふらしながらゾルンの隣までやって来た。途端に荷物を抱えたまま寝息を立てる。ふとゾルンが声を掛ける。

「フェオル」

「はい、寝てませんよ。支度金をお持ち致しましたぁ」

「公爵様にお渡しして下さい」

「かしこまりましたぁ。どうぞこちらになります」

「あ、ありがたく頂戴いたします」

 一連のやり取りにレイヴンも少し戸惑ったようだが、支度金が入ったトランクの中身を開けて中を確認すると満足気な表情を浮かべていた。フェオルと呼ばれた少年はすっと振り返ると馬車の元に戻り、御者が座る場所に乗り込んだ。

「では、お嬢様をお連れ致します」

「ええ、構いません。宜しくお願いします」

 レイヴンと言葉を交わしたゾルンは一度眼鏡の位置を直し、鞄に書類を戻すとレイヴンの隣に立っていたアナスタシアの方を見る。着ている執事服にはシワ一つなく、きっちりとした性格を伺うことが出来た。

「では、参りましょうか」

 白い手袋越しに相手の右手がアナスタシアに差し出される。

「ありがとうございます……」

 そっとその手を握ると相手は優しく握り返し、馬車までエスコートしてくれた。するとゾルンはレイヴンの後ろでアナスタシアを心配そうに見ていたメイの視線に気づく。

「侍女の方はご一緒ではないのですか?」

「は、はい」

「これは失礼いたしました。それではお荷物は後ろの馬車に乗せて頂いて大丈夫ですが、お手元にお持ちのそちらだけですか?」

「……はい」

 アナスタシアの手には母親が愛用していた小さなトランクケースが握られていた。唯一屋敷から小屋に移った時に持ち出した物だ。もちろん、中身は大したものは入っていない。相手側に失礼のないように体面を取り繕うためだけのものだ。

 ふむ、とゾルンは白い手袋がつけられた右手を顎の辺りに添えながら呟いた。

(やはり公爵家の令嬢が嫁ぐ準備にしては変だと思われてしまったかしら……)

「かしこまりました。では手前の馬車にお乗りください。お一人ではお暇になるかもしれませんので私も同乗させて頂きますが宜しいでしょうか?」

(えっ……?)

「は、はい。構いません。宜しくお願い致します」

 ゾルンは顔色一つ変えずにアナスタシアを手前の馬車に乗せてくれた。馬車の窓からはゆっくりとこちらに近づき、泣きそうな表情を浮かべるメイの姿が見えた。アナスタシアは優しく手を振る。

(メイ、今まで色々とありがとう……もう会えないのは悲しいけれど元気でね)

 彼女の意図を理解したのか、メイも深く一礼してみせる。ゾルンもその様子を見ていた。どうやら最後の挨拶が済むのを待っていてくれていたようだ。

「では出発いたします。フェオル、頼みます」

「ふぁい。出発しまぁす」

 馬車がゆっくりと動き出す。向かうは魔族の国シェイド王国にあるオースティン家だ。