突然の縁談の話を聞いたアナスタシアは軽く仮眠をとると早く起きて嫁ぐ準備を始めていた。

 冷たい水で身体の汚れを落とし、髪を洗う。お湯はどうにもならないが、石鹸はメイから貰った一番良いものを使った。久しぶりに香る石鹸の良い匂いが暗くなった気分を和らげてくれるような気がした。

「お迎えが来る時にはちゃんとドレスに着替えていなくちゃ。お迎えの方に対して失礼が少しでもないように自分が出来ることはしないと……」

 一つしかない座り心地が決していいとはいえない古びた椅子に座りながら大切なドレスが入っているクローゼットの方をアナスタシアは見つめる。かつては両親に買い与えられたドレスは沢山あった。どれも綺麗でお気に入りのものだったが、叔父レイヴンがこのミューズ家を継いだ五年前に全てフレデリカの物になったのだ。

 そればかりか、フレデリカが奇異のオッドアイを持つアナスタシアと同じ屋敷では暮らせないと言い出したのだ。その願いを聞いた叔父レイヴンによってかつてあった美しい庭園は更地となり、今いるボロ小屋が建てられた。

(逃げ出すことも……出来たのかもしれない。でも、私にはお父様やお母さまと暮らしたこの場所から離れることは……出来なかった)

 今は亡き両親との思い出だけを頼りにアナスタシアは冷たい雨風や、ひどい衣食住の環境に耐えてきたのだ。

 ふと昔の庭園のことを思い出す。当時は色々な貴族の間でも噂になるほどの美しい庭園だった。真ん中に噴水があり、その端に腰かけてよく唄を口ずさんでいたものだ。

「叔父様達にも耳障りだと釘を刺されているものね……最後に唄ったのはメイが私の誕生日にケーキを用意してくれた時だったかしら……」

 ―コンコン、とこんな早朝に小屋の扉がノックされる。小さく返事をするとメイが扉を開けて中に入ってきた。アナスタシアが屋敷にいる最後の日だということで特別に身支度の手伝いの許可をもらったと話してくれた。

「本当にありがとう、メイ。どうしても髪の手入れだけは一人じゃ出来ないと思って困っていたところだったの」

「お礼なんて必要ないですよぉっ。こうしてアナ様の髪を整えてさしあげるのは元々、私の仕事だったんですから!」

 まるで自分の誇りだとでも言うような表情を浮かべながらメイはアナスタシアの綺麗なハニーブロンドの髪にくしを通していく。しかし次第にメイの表情が暗くなっていくのをアナスタシアが気づいて声を掛けた。

「メイ……? どうかしたの?」

「……本当は侍女としてアナ様と一緒に行きたかったですぅ……」

「その気持ちだけで十分よ。きっとその話をしたら叔父様達に怒られるだろうから」

「うぅ……これで最後だなんてやっぱり私泣いちゃいそうですぅ」

 ぽろっとため込んでいた涙がメイの瞳から零れる。アナスタシアは振り返り大事にしていたハンカチを取り出し優しく拭いてあげた。

(……メイやこの屋敷と離れるのは私も嫌だけれど……仕方ないことよね)

 それからメイにも手伝ってもらい、ドレスの着付けや出来る限りの準備をし終えた。その頃には朝日がゆっくりと空を照らし出し始める。魔族の国からの迎えが来る時刻が近づいていた。

「アナスタシア! もう先方がくる時刻だぞ! 早くその汚い小屋から出てこい!」

 レイヴンの大きな声が約束の時間を告げる。メイに先導される形で身支度をしたアナスタシアが小屋から出てくる。

「叔父様、お待たせして申し訳ありません」

「ふん……お前にしてはしっかりとした身支度をしたようだな。本来ならお前に見送りなど必要ないのだが、相手側の持ってくる書類にサインが必要らしくてな。それに支度金を貰い受ける都合もある。ありがたく思えよ」

「……はい。ありがとうございます」

 隣に立っていたメイはつらそうな表情でアナスタシアのことを見ていることしか出来なかった。

「お前の主人の名はアーヴェント・オースティンという名だ。釣書をしっかり見たということにしておけよ。話を合わせて、余計なことは言わんようにな」

「……わかりました」

 しばらくすると遠くから馬車が近づいてくる音が聞こえてきた。二台の馬車が屋敷の門の前に止まる。一番前の馬車の中から執事服に身を包んだ背が高く、短い白髪で恰幅のいい男性が姿を現した。魔族ということもあり、丸眼鏡の奥に見える瞳孔は細長く、つるが掛った耳も尖っているのが見て取れた。

「お待たせして申し訳ございません。オースティン家から参りました。執事長のゾルンと申します」