「ぐっ……き、貴様っ! 私は男爵だぞっ! そのき、汚い手を放せ……!」

 銀髪の青年に右手をぎゅっと掴まれた男爵は痛みで顔を歪ませていた。だが、青年は掴んだ手を放す気はないらしく、左手に持っていたバケットの残りを頬張る。よく見ると青年は身体をやや前傾にしており、実際の身長は恐らくアーヴェントと同じくらいはあるようにアナスタシアの両の瞳には映る。更に執事服を着てはいるが、至る所にシワが目立つ。執事長のゾルンと比べて、その着こなし方を一言で表現するのなら()()という言葉がぴったりだ。

「放せと言われて、放す奴なんていねぇよ」

 青年は男爵の右手を掴む手に更に力を込め、やや上にあげる。すると痛みが増した影響で相手は声を上げる。

「いっ! いだだ……ぶ、無礼者めっ! 放せ、放さんかっ!! わ、わたしは男爵だぞ……!?」

「ピーピーうるせえなぁ」

 その声を聞いても青年は動じることなく、そのままの状態で扉が開いたままの玄関に向かってゆっくりと歩いていく。男爵も痛みを我慢しながら青年の動きに合わせて、後ずさりをするしかなかった。

「あ、あの……」

 突然の出来事で呆けていたアナスタシアが口を開く。

「ああ、奥様はそのままでいいですよ。今、仕事を済ませちゃいますんで」

「で、でも……」

 アナスタシアが気になっているのは痛みで悲鳴を上げている男爵のほうだ。例え手をあげられそうになった相手だとしても痛みで唸っているのを無視はできないようだ。青年にもそれが伝わったようで、左手を軽く上げて口を開いた。

「大丈夫ですよ、すぐに終わらせますから」

 後ずさりする男爵の両足が玄関から外に出た瞬間、ゴミを捨てるように青年が握っていた右手を放す。銀色の指輪が光っていた。放り出された男爵は体制を崩した拍子に玄関へ続く階段を転げていく。受け身も取れずに倒れ込んだ男爵は顔を歪ませながら立ち上がった。

「こ、こんなことをして……タダで済むと思って……いるのか!!」

 青年は男爵を見下ろすようにしながら溜め息を吐く。

「はあ……あんたこそ聞こえなかったのかよ」

「な、なんのことだっ?!」

「奥様が言っただろ? あんたは()()()()()()()じゃないって」

「!」

「なら、そんな奴をいつまでも屋敷の中に入れておくわけないだろ? さっさとお帰り頂くのがオレの仕事ってわけだ……でもあんたはそうはいかないけどな」

 そう言いながら青年はズボンのポケットに右手を突っ込むと、中から四つ折りにされた紙の束を取り出して数枚めくったあと、こちらを見ている男爵を睨みつける。

「バイツ・ドギー男爵……新事業を始めるって理由で融資を受けたが、その金を私用で使い込んだ挙句に返済期限を半年も過ぎてるっと……なんか手違いで屋敷に来たみたいだが、オレとしては仕事がやりやすくて助かったなぁ」

「お、お前は一体……?!」

「契約の時に説明があったろ? 返済期限を守れない悪い奴には取り立て屋が行くかもって……で、オレがその取り立て屋ってわけだ」

 不敵な笑みを浮かべながら青年が男爵を見下ろしていた。相手も心当たりがあるらしく、額に冷や汗を浮かべ始めていた。

(取り立て屋さん……この人がグリフと一緒で別邸にいるっていう人なのかしら)

 アナスタシアは玄関まで歩いてくると一部始終を見守るしかなかった。

「と、取り立て屋風情が……男爵である私を愚弄するなど許せんっ!」

 青年の雰囲気に押され気味だった男爵だったが、強気な言葉を口にすると右手の掌に力を込める仕草をする。それを見た青年の表情が険しくなる。

(あれって……まさか魔法……!?)

「この私を侮辱した罪を償ってもらうぞ!!」
「ったく……つくづく見苦しい奴だな」
「!?」

 男爵が右手を前方に向けた瞬間、階段の上にいたはずの青年の姿が消える。そして気づくと長い脚先が男爵の喉元に伸びていた。

「魔法まで使おうとするなんてな……奥様に感謝するんだな。本当ならこのまま蹴り飛ばしてるところだったぜ」

「ひ……っ」

 男爵は腰を抜かしてその場に尻もちをつく。青年がその気になればどうなっていたか、身をもって知ったからだろう。目には涙も浮かんでいた。

「さて、と……」

 青年は両手をポケットに入れると振り返り、前傾の姿勢のままアナスタシアの元に歩いてきて声を掛けた。

「とりあえず片が付きましたよ、奥様。お待たせしました」

「えっと……」

「ああ、名乗るのが遅れましたね。オレはグラトン。この屋敷の執事……っていうよりも用心棒をさせてもらってます」

 飄々とした雰囲気を出しながらグラトンが笑みを浮かべた後、アナスタシアに深く礼をする。

「ありがとう、グラトン」

「いえいえ、礼にはおよびませんよ。はぁ。本当、馬鹿な奴ですよ。奥様がちゃんと対応してくれているのにあんな態度をとりやがって」

「私……アーヴェント様みたいには出来なかったわ……」

 俯き加減で呟くアナスタシアを見て、グラトンが明るく声を掛けた。

「何を言ってるんですか。奥様は誰よりも立派に対応してましたよ。いやぁ、旦那にも見てほしかったなぁ」

「旦那ってアーヴェント様のこと?」

「ええ、オレは旦那って呼んでます。あ、もちろん許可は頂いてますがね」

 軽くはみかみながらグラトンが微笑む。それを見てアナスタシアも微笑んだ。

(粗々しい方かと思ったら、とっても優しく微笑んでくれる。グラトンはとても優しい人なのね)

「それじゃ、オレはアイツを別邸に連れて行きますね。旦那が帰ってきたらたっぷりと絞ってもらいますから。奥様はそれまでゆっくりとなさってくださいよ」

 そう言ってグラトンは階段を下りていき、尻もちをついて震えている男爵を肩に抱えると別邸の方へ歩いていく。先ほどまで強気だった男爵が萎縮して何かを呪文のように唱えていたのが印象的だった。

「アナスタシア様っ」

 グラトンとすれ違うようにラストが別邸の方から玄関に向かって駆けてくるのがアナスタシアの目には映っていた。アナスタシアの両肩から足先までを確認するように手を当てる。どこも怪我などがないことがわかると大きく胸を撫でおろした。

「使用人達から連絡を受けて、急いで戻ってまいりましたっ。この度は申し訳ございません、怖い思いをさせてしまいましたね」

 心配してくれるその気持ちが嬉しかったアナスタシアは柔らかく微笑む。

「大丈夫よ、ラスト。グラトンが助けてくれたから」

「そうでしたか。それでは詳しいお話はお部屋で伺いますね」

「ええ。そうしましょう」

 ラストに大切に連れられてアナスタシアは寝室へと戻り、男爵とのやりとりを説明しながらお茶会を再開した。

 その後、夕方過ぎにアーヴェントが屋敷に帰宅した。そして使用人達から報告を受けたアーヴェントは駆け足でアナスタシアのいる寝室にやってきた。

「アナスタシア、大丈夫だったか!?」
「はい。心配して頂いてありがとうございます」

 アーヴェントはラストよりも念入りにアナスタシアの頭の上から足先まで、怪我がないか確認していた。その気持ちが何よりもアナスタシアは嬉しかった。いつもと変わらない様子で微笑んで見せる。

「本当に大丈夫か?」
「はいっ」
「……そうか、なら良かった」

 アナスタシアの無事を確認したアーヴェントは一旦別邸へと向かった。そこで問題の男爵と話をしたそうだが、それはまた別の話。それから二人は夕食を共にした。そして寝室に戻ろうとしていたアナスタシアにアーヴェントが声を掛けた。

「アナスタシア、この後時間をもらってもいいか?」

「はい。大丈夫です」

 アーヴェントに誘われたアナスタシアは執務室に招かれる。今日は部屋の中ではなく、バルコニーに備えてあるテーブルに掛けて話をすることにした。夜風が気持ちよく、夜空には月が輝いていた。

「……」

 テーブルに掛けたアーヴェントがじっとアナスタシアの方を両の深紅の瞳で見つめていた。

「あの……アーヴェント様?」

 アーヴェントは大きくため息をしたあと、切なそうな表情を浮かべながらアナスタシアに声を掛ける。

「ラストには何かあるまでは入室は遠慮してもらっている。ここには俺とお前だけだ……もう気を張らなくてもいいんだぞ」

「!」

(アーヴェント様には気づかれてしまっていたのね……)

 ぽろぽろとアナスタシアの青と赤の瞳から大粒の涙が流れ落ちる。あんなことがあったのに変わらずいつものように振舞っていたのはラストや使用人達が叱られるのを気遣ってのことだというのが、アーヴェントにはわかっていたのだ。

「申し訳ありません……私……」

「ラスト達から話は全て聞いている。 ……よく俺の代わりを務めてくれたな。俺からも礼を言わせてくれ」

「そ、そんな……お礼なんて……」

 絶えずアナスタシアの瞳からは涙が溢れていた。自分でもどうにもできないようだ。

(涙が……止まってくれない……どうしよう)

 そんなアナスタシアを見たアーヴェントが不意に立ち上がり、近づいてくる。

「アーヴェント様……?」

 座ったままのアナスタシアをアーヴェントがぎゅっと抱きしめる。温かい手がアナスタシアの頭を数回撫でる。

「怖かっただろう……よくやってくれた。偉いぞ」
「アーヴェント様……」

 アナスタシアは今まで我慢していた分、泣いた。沢山の涙がドレスを濡らしていた。ある程度泣いた後、涙は静かに引いていく。その後は赤く腫れた両の瞳を見せないようにアナスタシアが両手を顔に当てていた。

「顔を見せてくれ、アナスタシア」

「いえ、駄目です。こんな顔、恥ずかしくてお見せ出来ません……っ」

 顔を赤く染めながらアナスタシアが首を左右に振る。そんな仕草を見て、アーヴェントは優しく微笑みながらその両手をゆっくりと退かせる。そして、はっとしたアナスタシアの額に軽く唇を重ねた。

「あ、アーヴェント様……」

「俺からの礼だと思ってくれ」

「は、はい……」

(額にき、キスをされてしまったわ……恥ずかしいけれど……今は、とても嬉しい)

 アナスタシアの心は嬉しさで満たされていた。ふと頭の中に言葉が溢れてくる。

「アーヴェント様」

「ん? どうかしたか?」

「唄を……うたってもいいでしょうか?」

 その言葉を聞いたアーヴェントは優しく微笑みながら、頷いてくれた。アナスタシアは立ち上がると、少し後ろに下がり一礼し今の気持ちを唄にして伝える。

【照らせよ 照らせ 心の中の 不安の雲を 孤独な夜など 来ぬように 照らせよ 照らせ 瞳に映る 希望の空を 瞬く星を 眺めるように 照らせよ 照らせ 月明かり】

 屋敷の中、そして別邸にもアナスタシアの唄が響き渡る。そして美しい月の輝きが二人を照らし出すのだった。