「そういえばここの主人は人間族の令嬢と婚約したとかいう話があったな……フン」

 アナスタシアに合わせて自らも名乗りを上げた貴族の男性は威張るように胸を張り、服の襟を正す仕草をしてみせる。それも勢いよくだ。明らかにこちらを威嚇しているような振舞いだ。

「それではドギー男爵様、今日いらしたご用件を伺っても宜しいでしょうか? 恐らく使用人達には既に説明しているかと思いますが、もう一度お願い致します」

 アナスタシアは動じることなく、落ち着いた様子で対応する。何故ならアナスタシアを心配そうに見ている使用人達をこれ以上動揺させたくなかったからだ。

「まあ、いいだろう……これを見ろ」

 相手は一通の手紙を封筒のまま差し出した。それを受け取ったアナスタシアは封筒から中身を取り出す。そこにはこう綴られていた。

 ―拝啓 ドギー男爵様。今一度、当屋敷へお越しください。返済の件に関して大切なお話があります―

「わざわざこちらは多忙の中、足を運んで来てやったというのに肝心の主人が留守だと? これは侮辱されたと思われても仕方なかろうっ。謝罪としてそちらには返済の期日を伸ばしてもらうくらいの誠意を見せてもらわんとな!」

(返済の期日を伸ばす……? もしかしてこの方はアーヴェント様から融資を受けていて、それをまだ返済出来ていない……?)

 アナスタシアは以前、ゾルンからアーヴェントの行う『融資』について聞いたことがあった。基本、融資をされた側は交わした契約書の期日通りに融資を受けた金額に利子を上乗せした金額を返済しなければならない、と。目の前にいる男性はそれがまだ出来ていないということをアナスタシアは彼の言葉の中から読み解くことが出来た。

(アーヴェント様がそんな大事なお客様が来るのを知っていて、留守にするわけがないわ……)

「聞いているのか!? 封蝋にはこのオースティン家の印璽(いんじ)もしっかりと入っているだろう?! さあ誠意ある対応をして頂こうではないか!!」

 アナスタシアは静かに手渡された封筒の裏面に目を向ける。そこには封蝋が確かに押してあった。

(! これって……)

「どうなんだ? 婚約者だからわからないという言い訳は通らんぞ?」

 威圧的な言動によって様子を見守っている使用人達の顔がどんどん曇っていく。矢面に立たされているアナスタシアのことも心配そうに見つめる者もいるほどだ。アナスタシアは裏面の封蝋をじっと見つめる。すると何を思ったか使用人の一人に耳打ちをし、使いに出した。

「何をコソコソしている! さあ、どうなのだ? 誠意ある対応をこちらは望んでいるのだぞ!?」

 刹那、アナスタシアが両の瞳を閉じる。胸の奥にかつて吐き捨てられるように投げつけられた心無い言葉の数々が浮かび上がってくる。だが、今はその言葉に捕らわれている場合ではない。

(私がここで一歩でも引けば……この方はその隙をどんどん突いてくる……恫喝とはそういうものだもの……でも、今の私は……引けない。引いてはいけないの)

 閉じていた青と赤の両の瞳をゆっくりと開く。心の水面は静かだ。波一つ立ってはいなかった。アナスタシアは目の前のドギー男爵に向かって口を開く。

「それではお話いたします……」

 アナスタシアの瞳に見つめられた男爵は一瞬たじろぐ。まさかアナスタシアが恫喝に動じずに言葉を掛けてくるとは思ってもみなかったのだろう。

「ほ、ほう……! ようやくこちらの言い分を飲む気になったということかな……?!」

「いいえ……大変申し訳ありませんが男爵様のご意向に添うことは出来ません」

「な、なんだと……?!」

 アナスタシアの言葉を受けて、男爵の眉間にしわが寄っていく。明らかに気分を害しているのがわかる。使用人達もアナスタシアの対応に驚きを隠せないようだ。

「ふ、ふざけるな!! こちらを侮辱しておいてそのいい草は一体どういうつもりだ!!」

 相手は更に激高しながら右手を振り払うように身体を大きく使って、アナスタシアを威嚇してくる。その時、使いに出していた使用人がアナスタシアの元に帰って来た。手には何かを握りしめている。それをそっとアナスタシアに手渡す。その使用人の心配そうな表情を見て、アナスタシアは心配しないで、と言わんばかりに優しく微笑みながら言葉を掛ける。

「ありがとう」

 手渡された物をアナスタシアは手元で確認する。

(……やっぱりそうだわ)

 だが、相手にはその一連の行為が気に食わなかったようで再び言葉を投げつけてきた。

「碌な説明もせずに先ほどからコソコソと……それが公爵家の取る態度か!!」

 歯をむき出しにしながら強い口調と素振りでアナスタシアを威圧してくる。だが、アナスタシアが男爵に向ける両の瞳は怯むことはなく、じっと彼を見つめていた。そして静かにアナスタシアが口を開いた。

「大変申し訳ありませんが、この度は大きな行き違いがあると存じます」

「行き違いだと……!? どういうことか説明して頂こうか!」

「こちらをご覧ください」

 アナスタシアは右手に持っている封筒の裏面を男爵に見せる。その手紙は間違いなく、先程男爵から手渡された手紙で間違いない。

「それが何だというのだ!? それは私の元に、このオースティン家から届いた手紙ではないか! 封蝋にも印璽がちゃんとされていると先ほども説明したはずだ! なんだ、この私を更に侮辱するつもりかっ」

 アナスタシアはその言葉を受けて、静かに首を左右に振る。

「いえ、そんなつもりはございません」

「では、何だと言うのだ!!」

「こちらを見て頂いた上で、どうぞこちらをご覧ください」

 そう言ってアナスタシアは先ほど使用人から受け取り、左手に持っているものを男爵の前に差し出す。それは一通の封筒だった。

「これが何だというのだ!」

「こちらがこのオースティン家から出される手紙になります。裏面をご覧ください」

 しぶしぶドギー男爵はアナスタシアの左手から手紙を受け取ると大きく鼻で息を吐いた後、封筒の裏に目を向ける。そして何かに気付いたような表情を浮かべた。

「……っ!?」

「お分かり頂けたでしょうか……?」

「こ、これは……」

 アナスタシアが説明を続ける。相手は明らかに動揺しているように使用人達には見えた。だが、何が起こっているかはまだ理解出来ていないようだ。

「男爵様のお持ちになられた手紙の封蝋に印璽されている紋章と、お持ちしたオースティン家の出す手紙に印璽されている紋章は一見すると同じように見えるかもしれませんが、まったくの別物なのです」

「ば、馬鹿な……!」

 信じられん、という仕草でドギー男爵は自分の両手に握られた封筒の裏面にある封蝋を見比べる。二つならべてみると、印璽された紋章がまったく違うことが誰の目で見ても明らかだった。

「男爵様の元に届けられたそのお手紙はこのオースティン家から出されたものではありません。その為にこのような行き違いが起こったと考えられます」

「ふ、ふざけるな!! こんなものが証拠になるわけがない! 私は客だぞ!? こんなことをして、この家の信用を落とすことになったらどうするつもりなのだ! ただでさえ主人はその深紅の両目を持って『吸血鬼』として恐れられているというのに!!」

 男爵自身もこの二つの手紙がまったく異なるものであると気づいたはずだが、ここで食い下がるわけにはいかん―そういう考えが透けてみえるように激しい言動を浴びせてくる。しまいにはアーヴェントがこの場にいないことをいいことに、彼を侮辱する言葉も口にした。だが、アナスタシアの両の瞳は動じない。まっすぐに相手を見つめていた。

(アーヴェント様が仰っていたわ……相手が信用にたる人物かは会った時、言葉を交わした時の所作をみることで判断することが出来ると……)

 アナスタシアは以前、商談の場を一度見学させてもらった時にアーヴェントから言われた商談に臨む時の心構えを思い出していた。一つ、一つ男爵とのやり取りを思い出す。そしてゆっくりと口を開いた。

「ドギー男爵様。確かにこちらから融資をしている時点で貴方様は依頼人ではあります。ですが、()()()()()()()()ではありません」

「な、なんだと!?」

「使用人達にとった高圧的な態度、絶えずこちらを威圧する仕草……そしてオースティン家の主人を侮辱する言動で私にもそれがわかりました」

「ぐ……!」

「私の旦那様となるお方はとても素晴らしいお方です……使用人達を威圧することもなければ、約束を反故にすることも決してありません」

 アナスタシアは商談の際に見せたアーヴェントのように毅然とした態度で、ドギー男爵の前に立つ。相手は明らかに動じていた。額には汗をかき、先程までは余裕を見せるように立っていた足も一歩後ろに引いていた。だが、男爵は苦し紛れの行動に出たのだ。

「婚約者の令嬢風情が……しかも人間族の娘が主人の代わりなど務まるものか!! 大体そのおぞましい両の瞳をずっと私に向けていたのも気に入らん!! 私は貴族だぞ!? 侮辱されてただで済むと思うな!!」

 両手に握りしめていた手紙をぞんざいに投げ捨てると、空手になった右手を上げアナスタシアの顔めがけて振り抜く。

(あ……っ)

 刹那、アナスタシアは自分が過去に受けた行為のことを思い出す。叔父のレイヴンや叔母であるクルエ、そして従姉妹であるフレデリカはことあるごとに自分達の意に沿わないアナスタシアに向けて手を上げていたのだ。その記憶が脳裏に浮かぶ。

()()叩かれてしまう……)

 その時だ。男爵の振り抜いた右手がアナスタシアの顔の近くで大きな音を立てて止まったのだ。はっと我に返ったアナスタシアがその音の方向を見ると、銀の指輪をつけた見た覚えのない右手が伸び、男爵の右手を強く握りしめていた。更に視線を向けると執事服を纏った銀髪の青年がアナスタシアを庇うように立っていたのだ。

「おっと、そこまでだ……それにしても()()に手を上げるとはいい度胸してるじゃねぇかよ。なあ? 男爵様よぉ」

 その青年の左手には大きめのバケットが握られていた。それを喰いちぎるように口に収めると青年は不敵な笑みを浮かべた。