これは王太子であるハンスが夜会の場にてアナスタシアとの婚約を破棄する宣言をして数日後のリュミエール城でのお話である。

 この日ハンスは父親である現リュミエール国王シリウスから玉座の間へ呼び出しを受けていた。本来ならシリウスはハンスが勝手にアナスタシアとの婚約を破棄してすぐに話をする機会を設けるつもりだったが連日開かれている議会で多忙だった為に、このタイミングでの呼び出しとなったのだ。

 玉座の間へと続く廊下を歩くハンスの表情は実に面倒だ、という気持ちが表れていた。口にも力が入り、歩く態度も衛兵達からは横柄なものに見えていた。玉座の間へと続く扉の前に到着すると扉の両側に立つ兵士に扉を開けるように言い放つ。

「父上に呼ばれてきた。早く扉を開けろ」

 只今、とハンスの強めの言動に気圧された兵士が急いで扉を開ける。フン、と荒い息を吐いた後ハンスは玉座の間へと足を踏み入れる。中程まで歩いていくと玉座に座るシリウスの姿が目に入る。傍らには王妃であるアルトリアの姿があった。

 王、王妃どちらもハンスと同じ金色の髪を携え、シリウス王は青の瞳を持ちアルトリアはハンスと同様の緑色の瞳を持って到着したハンスの姿を見つめていた。

「父上、母上ご機嫌麗しゅうございます。ハンス、参りました」

 一礼したハンスを見て、シリウスは黙って頷く。そして息を軽く吐いた後に口を開いた。

「ハンス、話は臣下の者から聞いている。アナスタシアとの婚約を夜会の場で破棄したそうだな」

 その話題が来ることはハンスには予測出来ていたようで、詰まらせることなく言葉を返す。

「はい。その通りです。父上も既にご存じかと思いますが、アナスタシアには悪い噂が溢れておりました。私が選んだ新しい婚約者であるフレデリカに対しての悪辣非道の行為の数々は見過ごすことは出来ませんでした」

 シリウスは険しい表情を浮かべていた。ハンスの新しい婚約を祝おうという雰囲気ではない。

「それは事実か?」

「ええ。臣下の者にアナスタシアの近辺を調べさせました。ミューズ家に仕える使用人達の証言もあります。これは紛れもない事実です。そんな者を婚約者として置いておいては、王家の品位にも関わると思い誠に勝ってではありますが、私の判断でアナスタシアとの婚約を破棄しました」

 ハンスは軽い口調でシリウスに説明をする。自分が正当だというのを誇示しながらだ。

「この私に許可なく、か」

 シリウスのその言葉にハンスの眉間がぴくっと反応する。

「……父上には書面にてご連絡をさせて頂いたはずです。議会などのご公務で多忙だというのは聞いておりましたので」

「この馬鹿者が!」

 シリウスの激怒した声が玉座の間に響く。同席していた各大臣達もその声に狼狽えている様子だ。

「ミューズ家の令嬢であるアナスタシアとお前との婚約は、今は亡き前当主ラスターとこの私との間で交わされたものだということは知っていたはずだ。それをこの私に事前の断りもなく一方的に破棄するとは……自分が何と愚かな行為をしたことがわかっているのか?」

「……っ!」

 ハンスは刹那、視線を外し不服そうな表情を浮かべていた。眉間にはシワが寄っている。額に軽く汗を浮かべながら口を開いた。

「……じ、事前のお話をしていなかった点はお詫び致します。ですが、既に婚約を破棄したことは多くの者に伝わっております。今更撤回など出来ないでしょう……?」

「お前の浅はかな行為によって貴族や大臣、関係者達から問い合わせが殺到している。……もっと王太子としての自覚を持つべきだろうな」

「……はい。申し訳ありません」

 婚約を破棄したことに対して、既にミューズ家の現当主レイヴンから了承を受けていたシリウスから婚約破棄への言及はそれ以上なかった。だが、失望の色を浮かべたシリウスはハンスに対して深い溜め息を漏らしていた。

「そのお前が選んだ新しい婚約者のフレデリカだが……王妃教育が上手く進んでいないと聞いているが……?」

「! フレデリカはまだ緊張していて、慣れていないだけです。近いうちにきっとその才能をお見せできます」

 目を細めながらシリウスがジッとハンスの顔色を伺っていた。そして小さく呟く。

「レオが居なくなったことをいいことにお前は自分のやりたい放題というわけか……これは色々と考えなければいけないかもしれぬな」

「……っ」

 シリウスの言葉を受けて、ハンスの眉間のシワが一つ増えた。だが、反論はなかった。そんな二人の会話を聞いていたアルトリアも悲しそうな顔を浮かべながら呟いた。

「アナスタシアは本当によく出来る令嬢でしたものね……」

 シリウスはアルトリアの方に向けていた視線を正面に立つハンスに戻す。そして表情を変えることなく、口を開いた。

「……もうよい。ハンス、お前は下がれ。任された公務を続けるがいい」

「……わかりました。失礼致します」

 小さくハンスが呟く。一礼して振り返ると玉座の間を後にした。それから行きよりも険しい表情を浮かべながら自らの公務を行う執務室への扉を開けて中に入っていく。

「父上め……よりにもよってあの病弱で弱虫なレオとオレを比べるとはなんて屈辱だ……! 母上もあの魔物のような瞳をしたアナスタシアがフレデリカより優っていたと遠回しに言うとは……くそっ!」

 執務室にある専用の机に右手の拳を叩きつけながらハンスが言葉を吐き捨てる。元々、ハンスがアナスタシアを婚約者として良しとしていたのはアナスタシアの父であるラスターが議会での権力を持ち合わせていたためだったのだ。

 全ては上手くラスターに取り入り、次期王の座を狙うためだ。更に言えば、気にいらない弟のレオが慕っていたアナスタシアを自分の物にすることで優越感を得ていたのだ。

 だが、そのラスターも亡くなり邪魔なレオもいなくなった今となっては奇異の瞳として蔑まれているアナスタシアは邪魔になっていたのだ。そこに議会での権力を得たレイヴンが娘のフレデリカとハンスの顔合わせの場を設けた。

 美しく、自分に甘えてくるフレデリカにハンスは簡単になびいたのだった。そして共謀して今回のアナスタシアの婚約破棄を企てたというわけだ。

「邪魔なレオもアナスタシアもいなくなったというのに、何故このオレがこんな侮辱をされなければならないんだ……!」

 机に山積みになった公務の書類を思い切り払いながらハンスは怒り露わにする。その書類のほとんどは最近になって街道や離村に出現するようになった魔獣への対策などに関わる書類だった。

「おまけに原因不明の魔獣の増加で面倒な公務も増えた……しかも、フレデリカの王妃教育に対して文句を言いだす教師たちも出てくる始末だっ……」

 再びハンスは怒りを込めて拳を机の上に叩きつける。興奮していたため、息も荒くなっていた。だが、軽く息を整えると思い出したように汚い笑みを浮かべる。

「だが……まあいい。そんな奴らは全てクビにしてやった。それに次の夜会でまたフレデリカに会えるのだから溜飲は下がる。ああ、愛しのフレデリカ……早く会いたいものだ」

 そのフレデリカ、いやミューズ家にも暗い影が落ちていることをハンスはまだ知る由もなかった。何故なら自らにも暗い影が落ち始めていたのだから。