夜会の場を去ったアナスタシアは御者に頼み、屋敷へと戻った。

 アナスタシアはその足で屋敷の玄関へ向かう、かと思いきや屋敷の手前にある景観にはとてもそぐわない古びた小屋の扉をゆっくりと開き中へと入っていく。屋敷の中にはこの数年、足を踏み入れた覚えはなかった。

 明るく灯された屋敷からは叔父夫婦の楽し気な声が響いてきていた。おそらくはハンスとフレデリカの婚約の話題で盛り上がっているのだろう。

「ただいま……」

 隙間風が吹く小屋の中でアナスタシアが小さく呟く。たった一つしかないランプに火を起こし小屋の中に明かりを灯す。部屋の奥に歩いていくと、着ていた薄い桃色が基調の古い型のドレスを大切に脱いでクローゼットの中にしまった。代わりにぼろぼろになった服に着替える。そのドレスは生前、母親であるルフレからアナスタシアに贈られた物だった。

(ドレスはこれ一着しかないけれど、お母様から貰った大切なドレスだから、大切にしなくちゃ)

 部屋の奥から戻ると、小屋の扉を小さくノックする音が聞こえてくる。それまで暗い表情をしていたアナスタシアの表情がぱっと明るくなる。急いで小屋の扉を開けるとそこには亜麻色のツインテールの髪を携えたメイド服の女性の姿があった。アナスタシアより少し年上に見えるが幼顔だ。手には残り物と思われる食べ物が乗った皿を持っていた。

「アナ様、今日の分のお食事……の残りをお持ちしました」

「いつもありがとうね、メイ」

 このメイド服の女性はメイ・クーデリア。ミューズ家に古くから仕えているクーデリア子爵家の長女であり、アナスタシアの両親が存命していた頃から身の回りのお世話をしてくれていた人物だ。叔父であるレイヴンがミューズ家の当主となってからは表立っては動けなくなったが今日のように、こうして屋敷の者の目を盗んではその日出た食事の残り物を持ってきてくれるのだ。

 小屋の中にある小さな木製のテーブルに持ってきた食べ物を置くと、メイはアナスタシアの両肩に優しく手を置きながら言葉を掛ける。

「夕方、フレデリカ様がアナ様を夜会に連れ出した時はハラハラしましたっ」

「心配かけてごめんなさいね、メイ。でも大丈夫よ」

「旦那様と奥様がお話していたのを耳にしました……全然、大丈夫じゃないじゃないですかぁっ」

 今にも泣きだしそうになりながらメイがアナスタシアを抱き寄せる。そんなメイの頭をアナスタシアはそっと撫でる。

「……ありがとう、メイ。今では見知った顔はあなただけになってしまったけれど、こんな私に優しくしてくれてありがとう」

「はぅ……あの……それでですね、アナ様……」

 感謝の言葉を口にしたアナスタシアをメイが申し訳なさそうな顔で見つめていた。それが何を意味しているのかすぐにわかった。

「……叔父様から何か伝言があるんでしょう?」

「はい……それが……今すぐお屋敷に来い、と」

「お屋敷に……?」

 数年ぶりに屋敷の中に入る機会が訪れることになるとは思ってもみなかった。だが、良くないことだということはアナスタシアにはすぐにわかった。

「メイは先に戻っていて。今すぐ行きます、と伝えておいて」

「はい。承知しました」

 怪しまれないようにメイを先に屋敷へと帰す。アナスタシアは少し時間を置いて、屋敷の玄関へと向かう。扉をノックすると冷たい目をした執事の男性が姿を見せ、吐き捨てるように入れ、と中に入るように促しそのまま叔父夫婦が待つ部屋へと案内された。

 部屋に入ると開口一番、レイヴンの怒号が響き渡った。

「遅いぞ、アナスタシア! 久しぶりに屋敷の中に入れてやるというのに、お前と言う奴は本当になっていないなっ」

「本当、我が家の恥さらしのくせにとろいんだから。おまけに髪もぼさぼさ、服もぼろぼろ。姿を見るだけでも嫌な気分になるわ」

 レイヴンに続いて夫人であるクルエもアナスタシアを汚い物を見るような目で見つめながら冷たい言葉を掛けてきた。

「……申し訳ありません」

 「ふん。まあ、いい。今日は我が娘フレデリカとハンス殿下とのめでたい婚約の日だからな。大目に見てやろう。それにお前にちょうど良い話がある。よく聞け」

 そう言うとレイヴンは一通の手紙を取り出す。ちらっと見えた封蝋は王城のモノだった。

「お前はこれから魔族の国に嫁ぐのだ」

 突然の話にアナスタシアは困惑した表情を浮かべるのだった。