夕食を終え、アナスタシアと別れたアーヴェントは自室に戻った。今日の仕事は全て片付けていたが、後から来た急な案件の書類だけはまだ目を通さないまま机の上に置いてあった。寝るまでの時間を使って目を通せば、問題ない仕事量だと考えていた。はずだったのだが現在に至っても一向に仕事が片付いてはいなかった。

「はぁ……」

 椅子に腰かけて楽な姿勢で机に向かっていたアーヴェントは手にしていた書類を力なく、机の上に戻した。もう同じことを何度も繰り返している。自覚はあるが、内容が頭に入らない。溜め息だけが同じ間隔で口から出ていた。

「はぁ……」

「はぁ……じゃないですよ。アーヴェント様、顔が緩みまくってますよっ」

 その声に気付いて机の反対側に両の深紅の瞳を向けると、ラストがこちらを見つめて立っていた。いつからそこに立っていたのかさえ、アーヴェントにはわからない。

「ラスト、どうしてお前がここにいるんだっ?」

 驚いたアーヴェントの身体が大きく動くとガタッと椅子が傾いた。ラストは両手を腰の辺りに添えムッとした表情を浮かべながら口を開く。

「アナスタシア様を寝室にご案内して、説明を終えたので戻って来たんですよ。そういうお話だったじゃないですか」

 そういえば、夕食の時ラストにそんなことを頼んでいたのを思い出す。言われるまですっかり忘れていた。

「そうだったな……すまない」

「もう、しっかりしてください。まあ、ぼーっとしてしまう気持ちもわからなくはないですけど。……お風呂から戻ってきたアナスタシア様はとってもお綺麗でしたものねぇ」

 軽く口元に手を当てながらラストがクスッと笑ってみせる。

「! ……どうしてわかった?」

 図星だったようで、バツが悪そうに眼を細めながらアーヴェントがラストに尋ねる。表情を変えることなく彼女が答える。

「わかりますよ。アーヴェント様、ホールの階段から降りてきた時にずっとアナスタシア様のことを見つめてらっしゃったじゃないですか。声の一つでも掛けてあげればいいのに、しばらくそのまま固まっていましたものね」

 溜め息がアーヴェントの口から洩れる。机に右肘をつけ、うな垂れる頭を手のひらでそっと支える仕草をしながら呟いた。

「ああ……見惚れてしまっていた」
「でしょうねぇ」

 間髪いれずにラストが言葉を掛ける。そのままの姿勢でアーヴェントが更に言葉を続ける。

「風呂で汚れを落として着替えたら、もっと綺麗になると思っていたが……想像よりも美し過ぎて言葉が出なかったのだから仕方ないだろう」

「アーヴェント様はアナスタシア様のことが大好きですもんねっ!」

「お前もわかっているだろう? 俺は()()()()()婚約したということを」

「ええ、わかっていますよ。でも実際に戸惑っているアーヴェント様を見るのが楽しくって」

「……」
「あらあら、これは失礼致しました」

 目を細めながらアーヴェントが睨むと、これ以上はいけないなと感じたラストが一度咳払いをした後に姿勢と表情を正す。

「でもちゃんと思ったことは頑張って言葉にしてくださいね。黙っているだけじゃ想いは伝わらないものなんですから」

 真面目な表情を浮かべながらラストが言葉を掛ける。それに気づいたアーヴェントが尋ねる。

「アナスタシアと話していて何か感じたのか?」

「ええ、あのお方は心のとても深いところに沢山の傷をお持ちのようですね」

「そうか……」

 しっかりと椅子に座り直し、机に向かったアーヴェントが腕を組みながら呟く。そんな彼をラストは柔らかい表情を浮かべながら見つめていた。

「せっかく()()出会えたのですから、大切にしてあげてくださいね」

「ああ、わかっているさ」

 真剣な表情でアーヴェントが口を開く。その後少しの間が出来ると再びラストがいつもの調子で笑いかける。

「でも二十三歳とは思えないその初心さ、私は結構好きですよっ」
「……ラスト」
「あら、これは失礼致しました」