『平和の丘』の上には静けさが漂っていた。瞳を閉じたアナスタシアは流れる風を肌で感じる。ゆっくりと青と赤の両の瞳を開く。そこには二つの国の景色が広がっていた。二つの国境に面したこの場所からしかみえない光景だ。アナスタシアはそっと視線をリュミエール王国側に向ける。

(私の生まれ育ったリュミエール王国。今は亡きお父様とお母様と共に過ごしたあの頃はとても幸せだった。そして美しい庭園の姿が今でも瞼の裏に焼き付いている。二人が亡くなって今までいろんなことがあったけれど……ミューズ家は私の心の支えだった)

 かつての両親との記憶、唄を毎日のようにうたっていた庭園の思い出。つらいことや哀しいことが沢山あった。だが、アナスタシアにとってミューズ家は愛すべき場所だったのだ。これからもそれは変わらないだろう。

 次に視線をシェイド王国側に移す。

(紆余曲折あって嫁ぐことになったシェイド王国。そして私の愛するオースティン家。初めて聞いたアーヴェント様の声を今でも思い出す。とても強くて、優しい声……私をずっと思ってくれていた優しい深紅の両の瞳。今では私にとってなくてはならない存在。メイ、そしてゾルン達をはじめとした沢山の使用人達が私を迎えてくれる場所……これからずっとあそこで生きていくのね)

 かつて母親であるルフレから贈られ、仕立てを新たにした素敵なドレスの胸元にアナスタシアはそっと両手を添える。眼下には両陛下、両王妃、そしてレオやライナー、リズベットの姿が見える。そしてその後ろには招かれた沢山の人達の姿があった。

(ここにいる全ての人が、二つの国のこれからの平和を望んでいる……かつてお父様とお母様がその全てを注ぎ、叶えようとしたように)

 ぎゅっと添える手を握りしめる。緊張からではない。溢れてくる想いがそうさせていた。アナスタシアは少し離れた所からまっすぐな視線で見つめていてくれるアーヴェントの方に視線を移した。彼はただ静かに頷く。アナスタシアも頷いてみせた。

(かつてのミューズ家の庭園で、私とアーヴェント様は出会っていた。その時から貴方は私の血よりも唄を好きでいてくれた。そしてずっと私のことを忘れることなく、探し続けていてくれた……運命というモノが本当にあるというのなら、これが私と貴方の運命だったのですね)

 再びアナスタシアは正面を向き、瞳を閉じた。

(『神の愛娘』だからではなくて……アナスタシア・ミューズとして……この世界に生きる一人として……私は平和への願いを込めて、幸せの唄を紡ぎます……!)

 胸に添えていた手をゆっくりと広げていく。光を帯びた綺麗な青と赤の両の瞳が開かれる。静けさは優しく、その幕を閉じた。

 想いを言の葉に乗せて、うたう唄。

 アナスタシアが紡ぐ唄。

【平和を願う星 一つ瞬いて 貴方の心を奮わせる この時を決して忘れないで それが明日を作るから 永遠に巡る星 一つ輝いて 貴方の想いを解き放つ その光を決して絶やさないで それが未来を照らすから 今 流れる星が空を駆けていく 新しい朝を迎えるために 平和よ永遠(とわ)に紡がれん】

 空に向かってアナスタシアが両手を広げる。階下から見ていた両陛下、そして全ての人達が立ち上がり盛大な拍手を送る。中には涙を流し、喜びの声を上げる者達の姿もあった。美しく響く、平和への唄が世界に広がっていく瞬間だった。

(お父様、お母様……これからのこの世界をどうか見守っていてくださいね)

 アーヴェントがゆっくりと近づいてくる。

「アナスタシア、素晴らしい唄だったよ」

「アーヴェント様……ありがとうございます」

 青と赤の両の瞳と深紅の両の瞳が見つめ合い、そして微笑み合う。

 アーヴェントはアナスタシアの立つ場所までくると、彼女を優しく抱きしめてくれた。アナスタシアも強く、アーヴェントを抱きしめた。そして二人はそっと唇を重ねる。

(そして、私達の未来を信じていてください……私はアーヴェント様と一緒に生きていきます……っ)

 平和の丘は盛大な拍手と声援に包まれていた。それもまた唄のように世界に響き渡るのだった。

 後に平和の丘の祭壇にはアナスタシアがうたった唄の歌詞が刻まれた石碑が建てられることになる。そしてそれはリュミエール王国、そしてシェイド王国。二つの国の後世に語り継がれていくことになる。

 『かつてこの国には平和を願い唄う、神から与えられた青と赤の両の瞳を携えた一人の唄姫がいた』という言葉が添えられて。