日常が戻ったオースティン家だったが、リュミエール王国とシェイド王国の調印式の日取りはゆっくりと近づいていた。その影響で屋敷は慌ただしい日々が続いている。

「にゃ、アナ様! 調印式で着るドレスはどれにするか決まりましたか?」

「それがまだ決まっていないのよね……」

 自身の寝室の大きな鏡の前でアナスタシアが険しい表情をしていた。メイに手伝ってもらい今度の調印式で着る服や装飾を選んでいたのだ。

「そろそろお決めにならないといけないですよね。もし一から作るのでしたら仕立て屋の方をお呼びして急いで作ってもらわないと間に合いませんからね」

「そうなのよね……でもこれだって思うドレスがなくって……」

 右の頬に手を添えながらアナスタシアが呟く。ゆっくりと鏡台の方に歩いていく。そこには身に着ける装飾品が飾られていた。

「身に着けるのはもう決まっているの。アーヴェント様から頂いたネックレスにイヤリング、そして……」

 アナスタシアは鏡台に大切に置いている小箱をそっと手に取ると中を開ける。自分の瞳と同じ青と赤の宝石が施された指輪が綺麗な輝きを放っていた。

(アーヴェント様の愛が詰まったこの指輪をつけて私は大勢の人の前で唄うのね……)

 指輪を見る度にアナスタシアの心は愛しさで溢れていた。そのことはメイも理解しているようで、愛しい表情を浮かべているアナスタシアを見て心が弾むのだった。

「にゃ~。ということは本当にドレスだけなんですよねぇ。困りましたぁ」

「ごめんなさいね、メイ。手間を取らせてしまって」

「そんなことございません! メイはアナ様が満足するまで一緒に考えさせて頂きますからね!」

 気合が入ったメイはクローゼットの中に飾ってあるドレスをまた一から精査し始める。すると一着のドレスがアナスタシアの目に留まった。

(あ……あれは……)

「ねえ、メイ。ちょっと待って」

「にゃ? どうしました、アナ様?」

「そのドレスをとってくれるかしら」

 アナスタシアはちょうどメイが持っていた一着のドレスをクローゼットから出して欲しいと頼む。それはアナスタシアがこの屋敷に来た日に着ていた薄い桃色のドレスだった。そして今は亡きアナスタシアの母であるルフレから贈られた物だったのだ。

「思えば私はこのドレス一着だけでこのお屋敷に来たのよね……」

 アナスタシアは初めて屋敷に来た時のことを思い返していた。そのドレスを纏った身一つでアナスタシアはこのオースティン家に迎えられたのだ。更にドレスを見ていた彼女は昔の記憶を口にするのだった。

「これを貰った時はまだ小さかったけれど、一番嬉しい贈り物だったわ」

「メイも存じてます。このドレスを貰った時のアナ様の嬉しそうな表情はメイの目にも焼き付いてますからっ」

 ふふ、と二人が微笑み合う。するとアナスタシアが何かを思いついた表情を浮かべる。
 
(……そうだわ!)

「メイ、お願いがあるのだけれど……」

 アナスタシアはメイに耳打ちをする。メイはふむふむ、と頷いた後に両手を胸の前で合わせる。

「それはとっても素敵なアイディアですね、アナ様!」

「でも間に合うかしら……?」

「大丈夫です! 今から手配しますね!」

 どうやらドレスの件はいい案が浮かんだようだ。二人は満面の笑みを浮かべていた。同時に昼食の時間を迎えたアナスタシアはメイを連れて食堂へと足を運ぶ。そこには仕事を終えて一旦本邸へと帰って来たアーヴェントの姿があった。

(アーヴェント様……!)

 今日は仕事の予定が入っていると聞いていたが、昼食を一緒に食べられるとわかったアナスタシアは思わず微笑む。アーヴェントにもそれが伝わったようだ。

「やあ、アナスタシア。今日は仕事が早く終わったから、是非昼食を一緒にと思ってな」

「はいっ。ご一緒出来てとても嬉しいです」

 そうか、とアーヴェントは柔らかく笑ってみせると席から立ち上がりアナスタシアの席をそっと引いてくれたのだ。青と赤の両の瞳と深紅の両の瞳が見つめ合う。アナスタシアも微笑みながら席に腰を降ろした。

「ほ、本当にお二人はお似合いですね」

 様子を伺っていたナイトが口を開く。その隣にはラストとメイも待機していた。

「ナイト様、こういう時は何も言わずに心の中でニヤニヤしているのが良いのですよ。ねえ、ラスト様?」

「メイも大分理解してきたみたいで嬉しいですわ」

「あわわ……」

 ふふふ、とメイとラストは笑みを並べていた。ナイトはメイがどんどんラストに似てきていることが少し不安だったようで言葉を呟いていた。それをよそにアーヴェントとアナスタシアは昼食の料理を美味しそうに口に運んでいた。頃合いを見てアーヴェントが口を開く。

「アナスタシア、今度この屋敷で規模は小さいがパーティを開こうと思っているんだ」

「まあ、それはとっても素敵ですね」

 アーヴェントの話では全ての一件が片付いたことで力を貸してくれた皆の労をねぎらうことも兼ねているということだった。そして更に言葉を加える。

「今日、母上から手紙が届いたんだ。遅くなったが、是非アナスタシアと会いたいと言っていた。パーティの日に招待したいと思っているのだが、どうだろうか」

(アーヴェント様のお母様といよいよ、お会いできるのね……!)

 アナスタシアは両手をそっと握りしめながら、微笑んでみせる。先日、アーヴェントから説明を受けて以来ずっと会いたいと願っていたからだ。思わぬ朗報にアナスタシアの声も弾んでいた。

「私からも是非、お願い致します」

「ありがとう。その旨を伝えておくよ」

 アーヴェントも嬉しそうな表情を浮かべる。しばらくして昼食を終えた二人はお茶を楽しんでいた。話題は調印式でうたう『唄』のことだった。

「何を唄うかはもう決めたのか?」

 紅茶の入ったカップを軽く口に当てた後、ゆっくりとソーサーの上に置いたアーヴェントは向かい合うアナスタシアに尋ねる。

「いえ。調印式では今までのものではなく、新しい唄を披露したいと思って今考えているところです」

(なかなか上手くいかないのだけれど……)

「そうか。大変だろうが、気負いせずにな」

「はい。お気遣いありがとうございます」

 アナスタシアも紅茶を一口、口に含んだ後に物思いにふける。だいぶ根を詰めているのが見受けられる。

(二つの国の平和を約束する調印式……立派な唄をうたわなくちゃ……)

 アーヴェントには気負うな、と言われてもやはり披露する場所が場所なだけにアナスタシアはかなり気負いしていた。いつもは呼吸をするように歌詞を思いつくのだが、今回はそれも上手くいかない。

 そんなアナスタシアを見つめていたアーヴェントが優しく声を掛ける。

「アナスタシア、このあと時間を貰えるだろうか?」

「はい……大丈夫ですけれど、何か御用でしたか?」

 アーヴェントは席から立ち上がると、アナスタシアの横に歩いてくる。そしてそっと手を差し伸べた。

「よければ庭園で一曲、唄ってくれないか?」

「! ……はい。喜んでっ」

 アナスタシアはアーヴェントの手に自分の手を重ねる。温かさが伝わってきていた。気負いしていた自分の肩に入った力を抜こうというアーヴェントの心遣いだったのだ。

 その日の午後、屋敷にはとても綺麗な唄が響き渡った。それを聞いた誰もが幸せな気持ちになる素敵な唄が。