「人気のカフェに勤めようかという気もしたけど、接客はちょっとイヤだなって思うし、料理は好きだから、オンラインショップも考えたものの、続かなさそうな気がするしね。事務系の仕事ができる会社に就職しようと思う」

「行動が遅いだろう」
「ライナスさんがたっくさん高価な宝石を置いていってくれたから、当面お金に困ってないからね」
「その宝石、手放せるのか?」

 痛いところを衝かれ、多希は靴を噤んだ。

 そうなのだ。ライナスにつながるものは、何一つ失いたくないのだ。

「おじいちゃん、ホント、意地悪よね」
「真実だろうが。だがまぁ、時間が経って、思いだしても平気になれば、売って生活費にしたらいいだろう。ライナスさんはそう思って置いていったんだろうから」

「…………」

「あの人は思慮深い。一手も二手も先を考えて行動している。頭のいい人だ。しかも礼儀正しい。もったいない」
「その話はしない」

 大喜は、ふん、と言って顔を背けた。

「おじいちゃんの了解を得たからその方向で進めるわ」
「ああ」

 多希は、よっこいしょ、と言って立ち上がった。

「……引っ越し先で一緒に暮らす気はないの?」
「ない」
「わかった」

 決意は本当に固いようだ。多希は大喜の部屋をあとにした。

(まったく)

 頑ななのは多希を思ってのことだ。

 多希の生活に大喜の居場所を作らないこと、多希のこれからの人生設計に大喜の存在を置かないこと、そうすることによって多希が先に進みやすくしようと考えているのだ。

 そこまで考えて多希は足を止めた。

(おじいちゃん、もしかして、どっか悪いのかな)

 そう思うが、そんな話は聞いたことがない。施設は月に一度定期健診を行っているし、常に顔色や言動の様子を見てくれている。現にライナスのことでケンカしたあとに訪問した時は、そのことを尋ねてきた。どこか悪いなら連絡があるはずだ。

(やっぱり、私のため、よね)

 つまりは介護を多希にさせたくないのだ。自分に時間を取られ、多希のしたいことができなくなるのが嫌なのだ。

 帰宅し、車を駐車場に入れた。家に入ろうとすると、前川の姿が見えた。

(いったいどこから見てるんだろう。ホント、気持ち悪い。でも、もうお客さんじゃないし、引っ越すまでの間だから)

 前川に気づかないふりをして玄関を開け、急いで中に入った。

 なんだか理不尽だ。多希は腹を立てながら、パソコンを起動し、大喜が入っている施設の近くで手ごろなマンションがないか探した。

(買ったほうがいいのかな。売って買ったら資産の変更で税金的にいいって聞いたことがある。キャッシュの資産になったら、所得税がかかるんじゃなかったっけ? うーん、会沢《あいざわ》先生に確認してからのほうがいいかな)

 会沢とは長年確定申告を頼んでいる税理士だ。会沢のアドバイスを受けてから探すほうがいいのかもしれない――そう思うと、なんだか気が削がれて探す意欲を失った。

 頬杖をついてダイニングルームを見回す。

 ライナスとアイシスが帰ってから半年が経ったが、彼らがここで過ごした期間は二か月ほどだ。もうとっくに、いなくなった時間のほうが遥かに長くなった。

 それなのに、二人の姿、声を鮮明に思いだすことができる。今も、そこに立っている姿が見える気がする。二人が会話しているように思える。

(ライナスさん、アイシス……元気にしてるかな。生まれてくる子は男の子かなぁ。だったらいいのに)

 目の前が滲んできた。多希は指で目元に触れた。

 涙は本当に涸れないんだな、とつくづく思う。

「こんなこといつまでも……ダメだな。気分転換とオーブンの使い収めに、マドレーヌを焼こう!」

 店舗に行き、オーブンの温度を設定して予熱する。

 バターを少し温めて緩くしてからはちみつを加えて混ぜ合わせる。

 ボールに卵を溶きほぐして砂糖を加え、すり混ぜる。

 卵は常温に戻しておくのがいいのだが、思い立ったことだし、店で客に出すわけでもないので気にしない。

 次に薄力粉とベーキングパウダーを二度ほどふるい、卵液に加えて艶が出るまでゆっくりとかき混ぜる。

 次にはちみつ入りのバターを数回に分けて加えてゆっくりと混ぜ、バニラオイルを加える。

 別のボールに氷水を張り、生地の入ったボールを浮かせた。

 生地を冷やしてグルテンの力を弱めると、焼いた時にしっかり膨らむのだ。冷蔵庫で一、二時間寝かすのがいいのだが、これも待っていられないので仕方がない。

 マドレーヌ型に薄くバターを塗りながら、生地をゆっくりかき混ぜ、なるべくまんべんなく冷えるようにする。

 塗り終わったら、冷やしている生地を流し込む。

「さて、焼くかな」

 鉄板にふきんを敷いて型を置き、そこに熱湯を二センチくらい流し入れる。しなくてもいいけれど、多希はしっとりしているほうが好きなので、このようにしている。表面がパリカリがいい場合は、そのまま焼けばいい。

 オーブンの時間をセットしてスイッチを押した。

 ウーン、と音がする。多希はそれを椅子に座って、ぼんやり眺めた。

 ウーンウーン、ウーンウーンウーン、ウーンウーンウーンウーーーーン!

 なんだかだんだん音が大きくなっていく。

(え?)