盛りを迎えた花の花弁(かべん)が、とある洋間の一室に迷い込む。

 小さな舞姫はひらひらと華麗に舞い、テーブルの上に優雅(ゆうが)に着地した。

 それを合図にしたように部屋にいた男は、自分の対面に座ったもう一人の男に、(びん)に入った液体を差し出す。

「これで最後になります」

 そう告げる表情は重く、深く、沈んでいる。

「すまない」

 差し出された男は頭を下げ、それを受け取る。

 いつもなら受け取ったらすぐに帰るはずの男は、席を立とうとしない。

 代わりに傍にいた従者にそれを渡し、下がらせると本人はそこに残った。

 眼前に座る男に聞きたいことがあったからだ。

 男はずっと胸に秘めていた疑問を目の前の男に、率直に尋ねる。

「あの子はどうして桐秋(きりあき)のためにここまでする。

 あの子はいったい何者だ」

 問われた男は今日が最後と言った時点で、この質問の予想がついていた。

 ・・・覚悟を決めていたつもりだった。

 が、これから話すことは胸がひどく搾り取られる。

 男は乾いた口に机に置かれていた緑茶を口に入れる。

 含んだものはまずい。

 もうここにはお茶を上手く入れられるものはいない・・・。

 男は茶の半分を一気に流しこむと、味を感じないよう一口で飲み込む。

 それから一拍(いっぱく)置くと、ゆっくりと口を開いた。

「あの子は私たちが殺した女性の娘であり、私たちの最愛の人を殺した男の娘ですよ」
 
 その言葉に“尋ねた男”南山(みなみやま)は息を呑んだ。

「昔、帝国大学にいた北川春朗(きたがわしゅんろう)という男を覚えていますか」

 南山はピクリと肩を震わせる。

「いえ、覚えていらっしゃらないはずはありませんね。


 教授はあの男を目にかけていましたし、北川とその妻になる女性の仲を取り持ったのも教授でした。

 教授のもとで助手として働いていた北川と、帝国大学で教鞭をとっていた英国人客員教授の娘。

 普通なら接点のない二人。

 しかし、たまたま父に会いに大学を訪れていた彼女に一目惚(ひとめぼ)れをしたという北川の話を聞き、あなたは二人が会う機会を作った。

 やがて二人は手紙のやりとりからをはじめ、真剣交際するにいたった。

 そんな若い二人を思い、両家を説得したのもあなたでした。

 そして結婚、ほどなくして娘も生まれた。それがあの子です」

 何ら間違いなく告げられる事実を南山は黙って聞いていた。

 が、終わりの言葉に異論を唱える。

「そんなはずはない。

 生まれた子の名前は“千鶴(ちづる)”ではなかったはずだ」
 
 南山の反論にも、“問われた男”西野(にしの)は動じず淡々と告げる。

「はい。あの子の本当の名前は千鶴ではありません。

 千鶴という名前は、あの子を引き取った時に私が名乗らせたのです。

 生まれてまもなく亡くなった実の娘の名前を」
 
 西野から告げられる衝撃の告白の嵐に、南山の頭は混乱をきたす。

 驚きと様々な疑問が浮かんでは消えていく。
 
 それが分かっていても、西野は話を止めることをしない。

 西野自身もひと息に話さないと、この先話すことを前に心が持たないのだ。

 それでも、眼前の男には、今から話す真実の引き金となった罪を己と共に犯した目の前の男には、一切を打ち明けなければならない。

「今から十年以上前、私が帝国大学の南山研究室に在籍していた頃、研究室では破傷風に対する血清療法の研究を行っていました。

 それはドイツで開発された最先端の医療技術。

 公私多くの金がつぎ込まれ、一部のものの利益のためだけに行われていました。

 私と教授もその利を得る側の人間でした」
 
 西野の言葉に南山は眉間(みけん)に深い皺を寄せる。

 いきなり告げられた耳に痛い過去の話が、己の疑問にどう繋がるのか分からないという顔。

 しかし、黙って西野の話に耳を傾ける。

「当時、教授の奥様と私の妻のお(なか)には同じ時期に出産予定の子どもがいました」

 明治末期(めいじまっき)新生児(しんせいじ)の感染症による死亡率が高い中で、南山は桐秋以外の二人の子どもを生まれてまもなく、破傷風により亡くしていた。

 その時宿っていたのはそれから長いこと空いて、ようやく新たに授かった命だった。

 西野の妻のお胎にいた子どもも、長い結婚生活で念願叶って実った命だった。
だからこそ・・・。

「私たちは宝を守るため、最大限の保険を作っておく必要があった。

 その一つが破傷風菌に対する抗毒素血清。

 破傷風は破傷風菌の毒素によって引き起こされる身体のこわばりから、やがては死に至る病。

 多くの乳児の死因になっている病気でもありました。

 そしてその治療薬は私たちがまさに研究しているものだった。

 ゆえに私たちは研究を利用して、自らの子どもに対する抗毒素血清を生成することにしたのです」

 西野は勤めて冷静であるように話すが、額には汗が浮かぶ。

 話はだんだんと核心に近づいていく。

「私たちがそのような研究を行っている一方、北川は他の病気の研究を独自に行っていました。

 その最中、南山研究室が確保していた検体馬(けんたいば)の一体を使わせてほしいと言ってきた」

 その時点では、破傷風の抗毒素血清を作るための検体馬は充分に確保できていた。

「教授はそれをお認めになった。

 しかしその直後、重大な事故が起こった。

 破傷風の抗体を作るためと使用していた馬が、動物特有の伝染病(でんせんびょう)で全滅したのです。

 もちろん、私たちが血清を抽出するはずだった馬も死んでいましいた。

 唯一生き残っていたのは別の場所に移していた北川の馬だけ」

 出産予定日がせまり、他の馬の手配ができない中、


 彼らがしたこと。