まだ人間が魔法と妖(あやかし)とともにいた頃の話。

 とある金持ちの男が、魔法の絵を買った。

 湖とその岸辺が描かれている絵だ。

 一見、平凡な風景画だが、
 なんでも、真夜中の十二時になると、描かれているものが動きだすという。

 そして、湖から、
 この世のものとは思えないほどの美しい人魚が顔を出すのだとか。
 
 男は絵を厳重な鍵のかかる厚いとびらがある、地下室に飾った。

 ここなら、絵も盗まれないだろう。

 男は絵の前にイスを持ってきてすわり、その時を待った。

 真夜中の十二時。

 湖面が波打ち、岸の木々が揺れ出した。

 小鳥たちの鳴き声。

 風のざわめき。



 しかし……、人魚は顔をあらわさなかった。

 その後も、数日はそのような様子だった。

 木々は動き、鳥の鳴き声はする。

 それだけだ。

 だが、一週間が経ったある日、男は見た。

 水面から、美しい女性が顔を出したのを。

 女は男に微笑(ほほえ)みかけ、湖にあった岩に腰かけると、歌を歌い始めた。

 女の下半身は魚であった。

 では、これが人魚か。

 男はその人魚のとりこになった。

 男は思った。

 もっと人魚を見ていたい。




 しかし、時計の十二時の鐘が鳴り終わると、人魚は湖の中へと戻ってしまった。

 人魚は気まぐれで、毎日あらわれるというわけではなかった。

 続けて顔を出す日もあれば、二週間は顔を出さない日もあった。

 男は、その絵を買った画商に、
 どうやったらもっと長く人魚を眺めていられるか尋ねた。

 だが、画商にはその方法が分からなかった。

 その絵を描いた画家は、すでに死んでいたからだ。

 男は、今度は絵描きたちを頼った。

 もしも人魚をずっと絵にとどめることができたなら、男の財産を半分やると言ったのだ。

 すると、三人の絵描きが名乗りを挙げた。



 はじめに、若い絵描きが、男の絵に描かれた湖の岸辺に、金の櫛(くし)を描きこんだ。

 するとその夜、人魚があらわれた。

 しかし、人魚は岸辺の櫛をとると、さっさと湖に帰っていった。



 失敗である。



 次に、中年の絵描きが、若く、美しい男を岸辺に描いた。

 はたしてどうなるのか。

 その夜、人魚はあらわれ、美男子をいとおしそうに抱きしめた。

 美男子も、人魚を抱きしめる。

 だが、人魚はその細腕からは想像もできないような力でもって、
 美男子を湖へと引きずりこんでしまった。



 これも失敗だ。



 最後は、年老いた絵描きだった。

 絵描きは言った。

 男の全財産をもらいたい。

 そうすれば、かならずやこの問題を解決してみせると。

 男はうなずいた。

 すると、年老いた絵描きは、絵を青い絵の具で塗りつぶしはじめた。

 何をする、と男はあわてて叫んだ。

 しかし、絵描きいわく、このようにすれば、
 絵の中の湖をのぞけるようになるということだった。

 確かに、この絵をまるごと湖の色である青で塗ってしまえば、
 湖の中を描いたのと同じことになる。

 そうなれば、好奇心旺盛な人魚のこと、
 きっとこちらに向かってくるだろう。

 こんな簡単なことだったとはと、男は全財産を、
 いや、少しの金さえわたすのが惜しくなった。

 そして、絵描きに、あとは自分でやるから、
 これを持って去れ、とわずかな金貨をわたして追い払ってしまった。



 一面真っ青に塗りこめた絵を前に、
 男は満足そうだった。

 いつものように地下室で、とびらをきっちりと閉めて、絵を鑑賞する。

 真夜中の十二時になった瞬間に、水面のように絵が波打った。

 と、同時に絵の中の水が大量に部屋の中になだれこんできた。

 地下室では窓もなく、水圧でとびらも開かない。

 そうして、金持ちの男は溺れ死んでしまった。

 それを風の噂で聞いた、年老いた絵描きは思った。

 知恵に敬意をはらわぬやつの末路か。

 もしあの男の心根がまっすぐだったなら、
 最後の仕上げに絵の枠に合ったガラスをはめてやったのに……と。