「え?」
 いきなり、サクッと別れを告げられ、我に返った柚樹は「な!」と声を上げた。

 ママの身体の輪郭がゆらゆらと、真夏のアスファルトみたいにぼやけ始めている。

「な、なんで?」
「奇跡は長くは続かないものよ」とママがいつものウィンクをする。

「で、でもいきなりすぎるだろ! だってさっきまで」
「たぶん、願い事が叶ったせいじゃないかしら」

「それにしたって!」
「絶対に叶わないはずの七夕の願いを、この木は叶えてくれたのよ。きっと、柚樹が水やりをして大切に育ててくれたおかげね。ありがとう」
 そう言って微笑むママが、陽炎みたいに揺らめいている。

 そんな。そんな、そんな、そんな。柚樹の頭はパニックで真っ白になった。

「な、なんとかなんないのかよ!」
「なんともなんないわねー」

「ど、どうしよう。どうしたら」
「もう~、落ち着きなさいよ」

「つか、なんでキャベツ丼なんか作ったんだよ! あれ、作んなかったら」
「作っちゃったもんは仕方ないじゃない。柚樹だって美味しいって喜んでたくせに」

「それは……てゆーか、なんで、そんな、のほほんとしてるんだよ!」
「焦ったところで、どうにかなるわけじゃないもの」

「まだ間に合うかもしれないだろ! な、なんとかしなきゃ。なんとか、なんとか」
「もう~、なんともなんないんだから、焦ったって仕方ないわよ。それより、消えるまで私と」

「ママはオレと一緒にいられなくてもいいのかよ!!!」

 怒鳴った柚樹に驚いて、ママのふざけた笑顔が凍り付いていく。

 激しい怒りが込み上げていた。
 いつか経験したことのある、酷い息苦しさを柚樹は感じていた。

 どうにもできないことへのもどかしさが、黒い塊になって心臓を埋めつくしていく。

 心がズキズキして、怒らずにはいられない。
 怒鳴らずにはいられなかった。
 何に怒っているのか、自分でもよくわからなかった。

「ママはそれでいいのかよ!!」
 柚樹の怒りを受けて、ママの顔が歪む。

「そんなわけないじゃない……だけど」
「いかないでよ」
 柚樹はこぶしを握り締めた。

「柚樹……」
「やっと会えたと思ったら、お別れなんてひどいじゃん」

「……」
「ずっと一緒にいてよ」

「……」
「もういなくならないでよ」

「……柚」
「オレだって」
 喉の奥に焼石がつっかかったみたいに熱かった。苦しさにぎゅっと、目をつぶる。

「オレだって」
 何が言いたいのか自分でもわからない。ただただ、楽しかったママとの思い出とママの笑顔が強く閉じた瞼の裏で繰り返し再生されて。

 ママと一緒にいたい。だってママはオレの……

「オレだって、みんなと同じように、本物のお母さんと一緒にいたいんだよ!!」

 叫んだ声が、冷たい夜の静けさに溶けていった。
 あの強風が止んでから、ここはずっと凪いだままだ。しんと、深く冷たい夜の幕が下ろされている。

 さっきまで何とも思わなかった静寂が、恐ろしい死を連想させる。
 痛くて苦しくて、嫌な記憶が蘇った。
 
(そうだった。柚の木に、オレは願ったんだ)

『ママにあえないなら、ママのこと、わすれさせてください』

 絶対に思い出したくなかったママのお通夜の記憶まで浮かびそうになって、ぱっと目を開いて夜空を仰いだ。
 相変わらず、嘘みたいに美しい星空と猫の目みたいな月が輝いていた。

「……本物、か」
 呟いたママが、柚樹をじっと見つめている。

 その時、消えていた風がひゅるりと舞い戻って、二人の間を抜けていった。柚の木の葉が、ざわざわと奇妙に揺れて音を立てる。

「それなら」
 ほわんと白い息を空に溶かしながら、ママが微笑んだ。

「それなら、赤ちゃんを殺しちゃおうか」

 ママは、にっこり微笑みながら確かにそう言ったのだった。