つわりって、やっぱ苦しいのかな、と柚樹は思った。
 そういえば、あの頃、ほんのちょっとだけ母さんの様子がおかしかった気がする。

 いつも玄関の靴をそろえないと怒られるのに、脱ぎ捨てでも何も言われないとか、柚樹の部屋が散らかっていても怒られないとか、母さんにしては珍しく洗濯物を取り込み忘れて夜までベランダに干されているとか、あと、いつもは家族揃って食事をするルールなのに、母さんだけ食べないとか……

 他にもいろいろあった気がするけど、どれも些細なことで、だから柚樹は、怒られなくてラッキー、とか、母さんもおっちょこちょいだな、とか、風邪で食欲ないんだな、くらいにしか考えなかった。

 でも、もしかしてあれは、つわりで具合が悪かったのかもしれない。

『赤ちゃんを産むことは、時には命がけになるほど大変なことです。』
 柚葉が代筆した作文が、浮かぶ。

 妊娠して身体が辛い中で、ずっと母さんは平然を装って家事をして、柚樹と向き合おうとしていたのかもしれない。
(それなのにオレは……)

『僕らはみんな、そうやって生まれてきました。』
(……オレも、ママからそうやって生まれてきたのかな)

 ママも大変な思いをしながらオレを生んだのかな。
 柚樹の脳裏にぼんやりと、夢の中のママも浮かんでいた。

「二人のお母さんのおかげで、今の柚樹がいるんだぞ」
 いつもの父さんのウザいセリフが、何故か胸にズンと来る。


「難しい顔しちゃって、どうかしたの?」
 ふと気が付くと、柚葉が柚樹の顔を間近で覗き込んでいた。

「うわぁ!」
 柚樹はぴょんっと、後ろにのけぞる。

「だから、距離感!! 柚葉近すぎだから」
 真っ赤になって叫ぶと「距離感って……他人じゃあるまいし、私と柚樹の関係よ?」と柚葉はぷくぅと膨れた。

「何、意味深な言い方してんだよ! 限りなく他人に近い親戚だろ!!」
 しばし考えこんだ柚葉が「そうだった」と、ペロッと舌を出して「で、どうかした? 悩み事?」と、尋ねてきた。

「……なんでもねー」
 あれだけ「赤ちゃんなんか死ねばいい」とか「再婚なのに赤ちゃんなんか作るな」とか、ギャーギャー騒いでたのに、今更、赤ちゃん無事生まれるといいなとか考えてるなんて、恥ずかしくて言えない。

「変な子ね……ま、いいけど」
 柚葉は、再びキッチンに向かい、鼻歌混じりに料理を始めた。
 ご機嫌な柚葉をチラッと盗み見て、柚樹はふと胸の辺りに手を置いた。

 ちょっと前まで母さんの妊娠のことを考えると、この辺がものすごく嫌な感じになって、モヤモヤ、イライラして、頭ん中ぐちゃぐちゃになって、息苦しくておかしくなりそうだったのに、今は、平気だった。

 そればかりか、赤ちゃんってどんなだろう、とか、ほんの少しワクワクしている自分がいたりする。
 不思議な、スッキリした気持ち。

 たとえて言うなら、引き出しの中にごちゃごちゃ文房具を放り込んで、もう消しゴムすら入らないと思っていたのに、あと一個、どうしても入れなきゃいけない必要な文房具ができちゃって、仕方なく中のモノを全部取り出して、仕切りケースを底に置いてから鉛筆は鉛筆、消しゴムは消しゴムと分けていったら、案外余裕で収まって、おまけにずっと昔に失くして忘れていたお気に入りの怪獣消しゴムが出てきた、みたいな。

(つまり……整理整頓してスッキリした、みたいな?)
 心に余裕が生まれた、みたいな。

 どうして、こんなに気持ちになれたのか。
 夏目のじいちゃんのおかげなのは確かだけど。
 
(でもやっぱ、それだけじゃないよな)
 キッチンで、柚葉がトントンと、小気味よく包丁で何かを切っている。

(やっぱ、柚葉のおかげ? かな) 
 必要な文房具がじいちゃんなら、仕切りケースが、柚葉、みたいな。

(って、何言ってんだ、オレ)
 自分のたとえが、意味不明すぎる。

 ただ、何というか……自分の中に確かにあったはずなのに、見つからなくて、ずっと探していた大切なモノを、柚葉が見つけてくれたような気がしていた。

 柚葉のおかげって言うのは、なんか、悔しい気もするけど。