「本当に、母さんも赤ちゃんも無事でよかったよ」
 ハンドルを握りながら、父さんが噛みしめるように呟いている。

 父さんも母さんも、クラスで柚樹がどんな扱いを受けているか知らないからそんな風に言えるのだ。もちろん、二人が知らないのは柚樹が話していないせいだけど。

 だけど。

 柚樹は下唇を噛みしめる。

 そもそも、オレは妹なんか望んでいない。妹なんかいらないんだ。
 だって、生まれてくる赤ちゃんは、父さんと母さんの正真正銘の赤ちゃんだから。

 だけどオレは違う。
 母さんは、オレの本物の母親じゃない。

(ママさえ生きていれば)

 ママ、柚樹の本当の母親の秋山百合子は、柚樹が4歳の時に病気で亡くなった。病に気づいたときは手遅れだったらしい。

 柚樹は筋金入りのママっこだったと、父さんや、ママの実家の春野のばあちゃんたちは言う。でも柚樹は覚えていなかった。
 幼いころから記憶力だけは良かった柚樹がママのことを覚えていないのは、柚樹が小さかったせいだけではなく、ママを好きすぎたせいでもあるらしかった。

 ママが死んだあとの柚樹は酷く情緒不安定になり、毎日「ママー、ママー」と泣き叫び、手が付けられなかったらしい。

 それが、ある時からぷつりと無くなった。
 柚樹はママと言う言葉を発しなくなったのだ。そして泣かなくなった。

 ママが死んだあと、柚樹の面倒を見るため家で寝泊まりしていた春野のばあちゃんの話によれば、柚樹はその頃、気が付くと、ぼおっと中庭の柚の木の前に立ち尽くしていたらしい。
 その奇妙な行動が数日続いた後、柚樹はぱたりと中庭に行かなくなり、いきなり狂暴になったそうだ。

 暴れて、噛みついて、叫ぶ。まるで野生動物のように。
 しつけがなっていないと周囲の大人から白い目で見られ、父さんも、柚樹に甘々なばあちゃんたちも、どう接したらよいのかわからず、持て余し、途方に暮れていたという。

 おそらくその辺りで、柚樹はママの記憶を忘れたのだろうというのが、ばあちゃんたちの見解だった。
 病院に連れて行ったわけではないから、詳しいことはわからないけれど、自分の心を守るためだったんじゃないか、という見解。

「野生動物になった柚樹を、保育園の先生だった母さんが人間の子供に戻してくれたんだぞ」と、お酒が入った時の父さんは言う。
 母さんに感謝しろと言いたいのか、ただ単に酔うと思い出すのか知らないけど、とにかく耳タコなくらい聞かされた。
 またかよってくらい。ウザいくらいに。

「二人のお母さんのおかげで、今の柚樹がいるんだぞ」と締めくくる父さんが、ウザい。

 母さんが妊娠したと知らされてからは、ウザさを通り過ぎてイライラする。クラスでイジメ……からかわれるようになってからは、更に、もっと。

(ママさえ生きていたら)

 最近、ずっとそのことばかり考えている。
 記憶はないけれど、ママっこだったってことは、ママは優しい人だったに違いない。ママが生きていたら、学校で再婚とかエロいとか、イジ……からかわれることはなかったのだ。もしくは。

(それか、母さんが、オレの本当の母親だったらよかったのに)

 そしたらオレだって、母さんの妊娠にこんなにモヤモヤしないですんだんだ。
 学校でも、あんな風に言われることはなかったのに。

 でも柚樹の本物の母親は死んだママで、母さんは柚樹の本物の母親じゃない。

(オレは母さんと血が繋がっていないのに、生まれてくる赤ちゃんは父さんと母さんの本物の子供)
 ズルい。激しくモヤモヤする。

『父ちゃんが再婚らしいじゃん? つまり父ちゃんは二人目の女を妊娠させたって事だろ』
 にやけた朔太郎の顔がちらつく。朔太郎たちも、康太と春信も、ゆかりも、クラスのみんなも、林先生も、父さんも母さんも、みんなみんな、ムカつく。イライラが止まらない。

(それもこれも、全部赤ちゃんのせいだ)

 雨は一層激しく降り続けている。柚樹はフロントガラスできゅっきゅと音を立てるワイパーをきつく睨みつけた。

(赤ちゃんなんか、死ねばいいのに)
 そう思わずには、いられなかった。