「ちょっと、ちゃんと拭いてよ」
 子機の下の部分を手で押さえながら、柚葉が小声で注意する。

「ちょ、まずいって」
 オロオロする柚樹に、柚葉はぱちっとウィンクを返してきた。

(いや、ぱちっじゃなくて)
「あ、もしもし、林先生ですか?」
 1オクターブ高い声も口調も、まるで保護者みたいな柚葉。

(めちゃくちゃ電話慣れしてるし、って、そうじゃなくて)

「私、柚樹の亡くなった母方の親戚の……ええ、そうです。いえいえ、昨日はありがとうございました。ええ。だいぶ落ち着いています。ええ」
 いえいえ~、おほほと柚葉は、電話越しの相手に向かって不気味に笑っている。

(昨日って、なんのことだよ)
 柚樹はますます焦る。

「ええ。ただちょっとナーバスというか。ええ、そうなんです。それで急ですが今週いっぱいお休みさせていただこうと思いまして。ええ。いえいえ~。はい。では、申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。はい、失礼いたしま~す」
 ピっと、電源ボタンを押して、柚葉が「ふう~」とため息を漏らしながら子機を充電器に戻した。それから柚樹を振り返ってブイサインをする。

「これで今週いっぱい休めるわね。ときどき近況報告で林先生と電話したほうがいいかしらね。まあ、その辺は上手くやっとくから」
 上手くって? とツッコミはさておき、もっと気になることがある。

「昨日はとか言ってたけど」
「昨日柚樹が二階に閉じこもったあと、林先生から電話があったのよ」

「ウソ?」
「ホント。パ、お父さんの携帯に何度もかけたけど繋がらなくてこちらに電話しましたって。お母さんが入院した際に、しばらくは何かあったら自分の携帯に電話してくださいってお父さんが言ってたらしいのよ。でも、急な出張のことは伝え忘れていたみたいね。まったく肝心なところが抜けてるのは相変わらずね」

「柚葉って、父さんとも仲が良かったの?」
「え? あ、うんと、そんなようなことをママから昔聞いたかなー、おほほほ」
 怪しい柚葉に眉をしかめた柚樹だが、あることに気づいて青ざめた。

「そんなことより、つまり、父さんが帰国して携帯の電源入れたら小学校から着信履歴がいっぱい入ってるってことじゃ……」
「そういうことになるわね」

「そしたら父さんの性格からして、すぐに小学校に折り返しの電話をするかも」
「するだろうねぇ」

「そしたらオレが休んだこととか、全部バレるじゃん」
「まあ、バレるわね」

「バレるわねって、どうすんだよ!」
「どうすんだよって、遊園地に行って遊ぶのよ」

「だから、父さん帰国したらずる休みがバレるんだって!」
 ああ、もう! 今から学校行くか? いや、やっぱムリ。だけど、ああどうしよう。

 頭を抱える柚樹に柚葉は呆れ顔で言った。
「そんな未来の心配したって仕方ないじゃない」

「未来って、今週の土曜には返ってくるんだぞ!」
「柚樹は明日が当たり前に来ると思ってるようだけど、それって間違いだからね」

「?」
「いきなり今日、事故に遭って死ぬこともあるのよ」

「今そんなありえない話してる場合じゃ」
「ありえなくないわよ」と、柚葉は強い口調で断言した。

「毎日どこかでいきなり亡くなっている人がいるんだから。その人たちは自分が今日死ぬなんてこれっぽっちも思わずに生きていたと思うわ。柚樹だって、しわしわのおじいさんになるまで人生が続く保証はどこにもないのよ」

「そりゃ、そうだけど」
「土曜日が来たらお父さんに怒られる、どうしよう。って毎日悩み続けて、金曜日に死んだら絶対後悔するわよ。そんな心配ばっかりしないでもっと楽しく過ごせばよかったって」

「……それは、まあ」
 口ごもる柚樹を、柚葉はしばし見つめた。そして……


「あっ!!!!!!!」


 突然、家じゅうに響く声で柚葉が叫ぶ。

「び、びっくりしたぁ。なんだよいきなり」
「って、叫んだ私はもう過去の私」

「?」
「こうやってグダグダ話している今は、さっきまで未来で、もう過去なのよ。もう戻ってこないの」

「……」
「とにかく!」と柚葉が腰に手を当てる。

「私は今を一瞬でも無駄にしたくないの。くよくよ悩む時間なんかないの。だからつべこべ言わず行くわよ!」
 そう言って柚葉は、何かを吹っ切るような、カラッと清々しい顔で笑ったのだった。