低学年の頃、「死ね」は、本当にダメな言葉なんだと思っていた。
 でも学年が上がるにつれ、言葉の重みが軽くなっていった。

 絶対に言っちゃダメと大人が禁止すればする程、子供は面白がって使いたくなるのだ。
 特に上級生になってからは、先生がいない教室での「死ね」は、ただのジョークになっていた。それで、時々、うっかり親とかの前で言っちゃって大目玉をくらうのだ。

 逆に、同じように道徳の時間に何度も取り上げられる「イジメ」という言葉は、学年が上がるにつれて妙なタブー感が強くなった気がする。

 イジメは絶対にダメです。

 低学年の頃の道徳の「イジメ」問題は、わかりやすかったと思う。

 たとえばAさんのことが気に入らないBさんが、Aさんの筆箱や上履きを隠したり、大切なものを壊したりする。
 これは、全員一致でダメだとわかった。

 でも学年が上がるうちに、どこからがイジメで、どこまでがからかっているだけなのか、どれがイジメで、どれがイジりなのかが曖昧な問題に置き換わっていったのだ。

 正解は、『イジメは、いじめられている人が「イジメ」だと思った時点でイジメです』という。

 たとえば、AさんとC君は幼馴染で、背の低いAさんのことをC君はずっと「チビ」と呼んでいた。Aさんは「その呼び方やめなさいよ」と怒ったふりをするけれど、実は「チビ」と呼ばれることはC君と仲の良い証拠だと捉えていたので、全然嫌じゃなかった。

 その後C君はクラス替えで、Aさんと同じ身長のBさんと同じクラスになった。C君はBさんのことも「チビ」と呼ぶようになった。
 ところがBさんは身長が低いことにコンプレックスに感じていてC君に何度も「チビって言わないで」とお願いした。しかしC君はBさんもAさんと同じで嫌がるフリをしているんだと思ってやめなかった。

 そしてある日、Bさんは耐え切れなくなって「C君にいじめられている」と教室で泣き出してしまった。

 この場合、Aさんの「チビ」はイジりで、Bさんの「チビ」はイジメだったということになるのだ。

 つまり、受け取る側が嫌だと思えば、同じ言葉でも「イジメ」になると教えられる。

 だから、気を付けましょう。で、道徳の時間は終わる。

 先生が消えた休み時間に、教室で始まるのは、男子vs女子の戦いだ。

「うわー、あんなんでイジメとか言われたらやってらんねー。女子って怖ぇ」と男子が騒ぎ出す。
「はあ? C君が子供なんじゃん。男子ってほんっとそういうとこあるよねー」と女子。

「んなこと言ったら女子って」
「何それ!男子こそ」

 ぎゃーぎゃー一通り騒いだあと「でもさ、Bさんってちょっと心が狭いよね」「確かに、いるよね、そういう子」「いるいる。冗談を本気にするやつ。真面目かよ」「ちょっとイジッただけなのにね」「みんなそれくらい気にしないのに、自己中じゃね?」と、Bさんの批判に置き換わっていき、一致団結する。

 何故なら、みんなC君側の経験があるからだ。

 全く悪気なく言ってしまった、というよりは、ちょっとムカついたからイジりっぽく意地悪を言ったとか、シカトしたとか。

 それくらいみんなやっている。柚樹にも経験がある。

 だけどお互い様だからちょっと嫌だと思っても、たいていスルーする。
 間違っても先生に言いつけたりはしない。
 みんなの前で泣いたりしない。

 大ごとになったのは、Bさんの心が弱かったせいだ。

 つまり、いじめられていると主張するのはみんなより心が弱いとか、心が狭いって証拠なのだ。

 だから、柚樹も、クラスでシカトされていることも陰口を言われていることも誰にも話していないし、平気なフリをしている。

「あれくらいで」とか、言われたくないから。

 今はただ、からかわれているだけだ。
 こういうのは風邪みたいなもんで、今は柚樹がかかっているけれど、みんなが再婚の話題に飽きるか、柚樹の家族のことよりももっと面白いゴシップが出てくれば、他の誰か、もしくは何かが今度は柚樹のポジションに置き換わる。

 今はちょっとからかわれているだけ。

 自分がいじめられている、なんて絶対に思いたくない。オレは心が弱い人間でも心が狭い人間でもないから。