環境活動家の問題も深刻になってきてるね。 環境問題は確かに大事だし主張によっては共感もする。
でもそれを活動に使ってはいけない。 主張は自由だけど、それによって生活を混乱させるような事件を起こしてはいけない。
 日本でも居るだろう。 環境を守れと叫びながら環境を壊しまくっている人たち。
ソーラーパネルは最も顕著な環境破壊の悪例だ。
さらに言えば「山を守れ。」と言いながら山を崩壊させている人たちは何がしたいんだろう?
山を守るとは手付かずで放置することではない。 きちんと手入れをして整備し管理することだ。
 先頃、大雨が降るたびに土石流とか斜面崩壊が問題になる。 なぜ?
 西日本豪雨の時、治水の専門家が驚くような発言をしていた。 「地下水脈を調べて川を強化するんだ。」と。
ぼくは「アホか。」と思った。 川の補修などをすれば氾濫は防げるかもしれないさ。
でも想定外な水量が下流を襲うことになる。 そうなったら無意味じゃないか。
 これまでも確かに土石流などは起きていた。 けれども今のようなとんでもない被害は出さなかったんだ。
それはなぜ? 山を管理してきたからさ。
 腐葉土を適度に処理し植林を進めて、山が持っている保水力を上げてきた。 だから山が丸ごと崩れ落ちるような災害にはならなかった。
 ではなぜ、こうすることが有効なのか?

 木を植えれば大地に深く根を張る。 その根が互いに絡み合って岩や石を抱き込む。
そして水を吸収するから地盤は段々と強くなってくる。 そうすれば自然と保水力も大きくなる。
山が自然のうちに大きなダムになるんだ。 そこへ雨が降る。
地表の水は腐葉土が吸収してくれる。 沁み込んだ水は根に抱き込まれた石の間に溜まった土が保管する。
そして自然の浄化槽のおかげで時間を経て地下水となって下りてくる。
このプロセスを無視して川だけ補修しても無駄なんだよ。 補修といってもセメントを打ち込むだけでしょう?
それではね、護岸は出来ても川を守って山を助けることにはならない。
 じゃあ、環境活動家が言うように山を手付かずで放置したらどうなる? 腐葉土は増え放題だよ。
これが水を吸ってしまえば遮る物は無いから山津波になって襲い掛かってくる。 人間じゃ逃げれないよ。
巻き込まれたら大変なことになる。 それでもいいんですか?
 防災だ減災だと騒ぐ前に山の保水力を上げることを真剣に考えてくれ。

 世界では環境活動家が殺される事件が急増している。 それはなぜ?
純粋に環境問題を訴える人たちだけでなく、利権で動き騒ぎを巻き起こす人たちが増えたからさ。
主張は自由だよ。 賛否も自由だよ。
でも殺人だけはいけない。 このままだと見えない戦争が勃発する危険が有る。
しかもそれは外国だけの話ではない。 日本にも居るからね。
 騒ぐのは自由だよ。 でも他人の生活を脅かしてはいけない。
そうなったら犯罪者だ。 そこで新たな恨みの連鎖を生んでしまう。
それだけは避けたいもんだね。

 近頃、ぼくは介護事業者に一つの懸念を抱いている。 「してやってる。」って思い上がっていないか?ということだ。
 一部かもしれないが、守秘義務違反や職務怠慢、利用者への暴言が明らかになってきている。
利用者が居るから仕事をさせてもらえるんだ。 事業者が居るから利用者が居るわけではない。
 昨日、ホームヘルパーが後退していたことをぼくは知った。 前振りは何も無かった。
事業所に問い合わせると「半年で交代するのはルールだから。」という返事が返ってきた。
ならば今までなぜヘルパー交代はされなかったのか?
長くては2年も通ってくれた人が居る。 今回は4か月での交代だ。
しかも交代できた人は問題発言が多くて交代させろと要求した人だった。
率直に「その人をまた寄越すのであれば利用を打ち切る。」と伝えておいた。
 自ら管理も監督も出来ない事業者であればヘルパーが減っていくのも当然だろう。
 特に公務員はグダグダになっている。 あまりにひどいようであれば市役所の介入を求めたいと思っている。
他人のふんどしで飯を食わせてもらっているんだ。 利用者に養ってもらっているんだ。
その意識が今の介護事業者には無さすぎる。 恥ずかしいことだね。
 同行援助をお願いする。 ふつうなら確定の連絡が来て決定となる。
担当者と話したのであればそれでいい。 でも別人だったら?
 予約は予約のまま放置されて当日まで何一つ連絡が無かったら不安になるだろう。
それを社共はやってしまった。 「いつものことだし、曜日も時間も同じだからいいかと思って、、、。」
利用者としてはそれでは困るんだ。 話が伝わっているのか、計画は立てられているのか分からないんだから。
 そして同行中の暴言。 「何でこんなに時間がかかるの?」
ぼくに言われても困る。 相手が居てのことだから。
ほんとにね、介護支援事業者はだらしなくなっている。 ヘルパーが減るのも頷けるよ。
 掃除担当なら何とも思わない。 やることは同じなんだから。
でも料理担当は違う。 その人によってやれることが変わってくるから。
それにぼくらも人に合わせて食材を用意する。 魚料理が得意な人には魚を、、、。
それをさあ、いきなり担当を替えられたら混乱するよ。
もしも魚が苦手な人だったら用意した魚は無駄になるじゃない。 何も考えてないよね。
 前もって相談されたらこちらも意見を言うことが出来る。 好き嫌いが問題ではない。
やれるやれないが問題でこちらも考えているんだ。 介護事業はそもそもが利用者本意だからね。
事業者本意ではないわけだ。 そこを分かってない。
 それにさあ、ヘルパーがミスした話をあっちこっちで言いふらすのもどうかと思うよ。 本人は堪ったもんじゃない。
事務所や訪問先で「こないだ、こんなことをやらかしたんでしょう?」なんて聞かれたら逃げたくなるよね。
そんな事業者ならさっさと縁を切りたいよ。 馴れ合いとかそれだけの問題じゃないはず。
少人数で締まりもなく仲良しでやってるからそうなるんだよ。 いい加減にしてほしいわ。

 福祉とか障碍者支援などというと難しいことをやっているように思う人が多い。
それはただ【福祉】という熟語がそうさせているだけで、本当は何でもないことだ。
見えないから誘導する。 聞こえないから筆談をする。
歩けないから車椅子に乗せる。 そんなもんなんだよ。
何も特別なことをしているわけではないんだ。
でもなぜか多くの人たちは「自分には無理だ。」と思い込んでいる。 そのくせ助け合いは大事だなどと平気な顔で宣われる。
それはなぜ? 障碍者と関わったことが無いからさ。
 でもね、近所を見てごらん。 障碍者は普通に暮らしている。
見えない人、聞こえない人、歩けない人、手が使えない人、、、。
普通に何処にでも居るんだ。
 『遠き日の忘れ物』にも書いたけれど、盛岡市に住んでいた頃、こんな人に会った。
 それは夜に買い物に出た時のこと。 交差点にぼくが居ると携帯で話しながらお兄さんが歩いてきた。
「俺さあ、今ね交差点に来てるんだけど、白い棒を持った変なのが居て気持ち悪い。」 そう言っているのが聞こえてきた。
ぼくは腹が立ったよ。 でもね、その人に喧嘩を売ったって意味が無いんだ。
視力障碍者と関わったことが無いボンボンに怒ったって無駄なんだよ。 言ったところで「ああそうですか。」とはならないから。
こんなのは放置しておく。 そもそもの教育環境に問題が有るんだから。
 一般校と支援学校はなぜ交流しないの? だから無理解の差別が広がるんだ。
学生時代に関わらなかった人たちが社会に出てからいきなり遭遇するんだ。 しかも宇宙人を見るような眼でね。
そこには基本的な理解が無いから、ただただ【変なやつ】としか思えない。 こんなのを相手にして喧嘩したって疲れるだけ。
 今は一応、ノーマライゼーション社会だって言われている。 でもなかなか底辺まで理解は進まない。
 福祉団体の人たちでさえ、「目が見えないのは可哀そうだから助けてやらなきゃ、、、、。」って宣われるのにはうんざりする。
ぼくらは社会的乞食でも何でもない。 ちゃんと足で立ってるよ。
仕事もするし恋愛もする。 結婚もするし喧嘩もする。
 見えないだけ、聞こえないだけ、動けないだけなんだ。
それを大げさに助けてやろうなんて言わないでもらいたい。
助け合いってのは黙って静かにやるもんだ。 「助けまあす!」って大声で飛び込んでくる人たちにろくなのは居ないから。
 アジア系の男性に会ったことが有る。 夜に遊びから帰る途中だった。
バスを降りて歩いていたら「私に出来ることは有りませんか?」って聞いてきた。
言葉が通じなかったらしくて役に立ってもらうことは出来なかったけど、、、。
日本人は根、「助けてください。」って何回も言わないと動かないんだよ。 困ったもんだよ。