紗希の目にうっすらと涙が浮かんだ。

「ホンマはあの時、好きやって言おうか迷ってんけど」
「……え?」

 意外な言葉に紗希は目を大きく見開いた。

 圭司は相変わらず下を向いてムスカリを見つめている。

「けど、逆効果ちゃうんかなぁと思ってな。迷っとったら、お前が東京の大学受けるって聞いて、あぁ、こいつはあの事件のこと、誰も知らん世界に行きたいんやなぁって思った。だから俺も腹の底に沈めて、思い出にしようと決めたんや。ずっと想っとったのに、言えんかった。傷つけたくなかった」

「ウソ。だって、圭ちゃん、女の子と手を繋いで歩いてたじゃない」

 圭司は困ったような顔を紗希に向けると、また俯いた。

「俺も男やから、お前のこと諦めようと決めた矢先の告白に、グラッときたのはホンマや。でも一回デートしたら、やっぱりちゃうってわかって……それで断わろうと思ったら、今度はお前に言われた」

 紗希は「カノジョできたんやろ? 見たで、おめでとう!」、そう言ったことを思いだした。

「あ……」
「そやのに、結婚したって聞いた時は、なんや取られたみたいでショックでなぁ」

 今度は顔を上げ、真っ直ぐ紗希を見つめて、ニッと笑った。

「そか。離婚したんか」
「……なんか、喜んでるみたいに見える。からかわないでよ」
「からかう? 俺、そんな悪趣味ちゃうで。そんで、帰ってくるんか?」
「うぅん。新しい仕事見つけたし。やっぱり、こっちはまだ痛いもん。それにあの出来事の上に、大学在学中に妊娠、中退、結婚、それでもって離婚って知られたら、ますます痛いもん」

 圭司は目を丸くしたが、ふいに大声で笑いだした。

「なによっ!」
「いや、お前、たった四年の間に、エラいいっぱい経験して、強うなったんやなぁ。やっぱ、東京はすごいわ」
「はぁ?」
「俺、今月、大学卒業したんやで。やっと来月から、社会人の仲間入りや。お前と大違いやん」
「あ、そっか。卒業、おめでとう。就職は?」
「なかなか大変やったよ。お前もちゃうん? コロナは東京も大阪も関係ないやろ?」
「……そうだね」

 確かに圭司の言う通りだ。伝染病のおかげで火との生活をすっかり変えてしまった。

 神妙な表情の紗希とは異なり、なぜだか圭司の顔は明るい。

「なぁ、また話変えるけど、ムスカリ事件、覚えてるか?」
「ムスカリ事件?」
「あぁ。小学校の時……三年やったかなぁ、俺も含めて悪ガキどもでここにやってきて、ムスカリ踏みつけて遊んでて、あとからやってきたお前、ものごっつー悲しそうな顔してムスカリ見てたこと」
「……そうだったっけ?」
「そうや。俺、その時のお前の顔見て惚れてんから」
「圭ちゃん」
「間違いない。はっきり覚えとるから」
「小学三年でしょ」
「初恋に年齢は関係ないやろ」

 唖然とする紗希を見て圭司は照れ臭そうに微笑み、立ちあがった。

「俺な、来月から働き始めるけど本社が東京やねん。就職できたら職場はどこでもえぇと思っとったけど、やっぱり地元離れるのはイヤやなぁって気持ちも強かった。関西勤務にしてもらえんかなぁって。そやけど、お前が一人でおるんやったら、本社はムリでも、東京で希望出そうかなぁ」

「…………」

 驚く紗希の目と、余裕の圭司の目。二人の視線が絡みあう。

「半年の研修期間は各地の工場とか支店回るそうや。そのあとに、通るかどうかわからんものの、一応、希望出すそうやねん。今日ここに来た理由やけど、もし東京勤務になってしもたら、偶然でもえぇから、お前に会わしほしいってムスカリに願掛けに出向いたんや。結婚しててもえぇから、会いたいって」

「圭ちゃん……」

「ダンナに悪いなぁって思ってたけど、なんや、気兼ねすることないんやな。大きい顔して会いに行けるやん。知らん東京での一人の不安は、お前、ようわかってるやろ? やったら、幼なじみのために一肌脱いでくれや」

「…………」

「道案内に、ウマい店に、洒落た場所。それに電車。会社やら、線やら、駅やら、めっちゃあるやん? 多すぎて覚えられへん。教えてくれや」

「そうだね。いいよ、いろいろ伝授してあげる」
「ほな、デートスポットも頼むで」

 悪戯っぽくニマッと笑う幼なじみの顔に向け、紗希は嬉しそうに頷いた。

 足元には、ムスカリが風を受けて小さく揺れていた。