約ふた月前、俺は菊乃の窮地を救うことで夫の座を手に入れた。濡れ衣を着せられ、退職に追い込まれた菊乃に、新たな仕事としてイタリア行きのパートナーを提示した。契約婚と言ったのは、仕事として考えてほしかったからだ。
俺にとっては片思いの相手。しかし、菊乃にとっては弁当屋の常連でしかない。年もかなり違う。
困っているきみを助けたい。さらには俺も困っているので助けてほしい。
お互いにメリットのある結婚にしようと提案したつもりだ。

彼女は自分が困っているからではなく、俺が困っているから手を差し伸べてくれたようだ。やはり俺が恋した女性は優しく思いやりのある人だ。
しかし、その優しさにつけこみ、夫という立場を利用して彼女を好きにできるわけがない。

このふた月、同居が始まってからひと月半、俺はいいルームメイトを演じてきたつもりである。
食事を作ってくれる彼女への感謝のために、できる家事は率先している。いい距離でいるために、家にいるときは会話を心掛けているし、彼女のプライバシーを尊重するために個室を用意し、リビングを長時間占領するようなこともしていない。
休日は買い物や散歩に行く。たった一度だけ流れで手をつなぐことはできたが、本当にそれだけの接触だ。

俺はこの距離で満足している。
週に何度か一瞬顔を合わせるだけだった想い人が、今は同じ家に住み、俺と笑いあってくれるのだ。それ以上望んだらばちがあたる。
しかし、俺にだって下心はある。
できたら、この三年の間に菊乃と本当の恋をしたい。三十もなかばになった男としてはかなり奥手な思考だが、俺は真面目にそう考えている。異国の生活をともにし、互いを頼りにして暮らすうちに恋が芽生えても不思議ではないだろう。
菊乃は俺に人間的な好感はあるようだし、時間があればいつかは……。