「ご挨拶もできずに申し訳ありませんでした」
「詮索するようですが、何かありましたか?」
「ええと……一身上の都合といいますか……お客様にするようなお話ではなくて、ですね」
「次のお仕事はお決まりですか?」

詰め寄られる形で、私は驚いてわずかに後ずさった。

「……イエ、……未定です。社員寮から引っ越さなければならないので、新しい住所が決まってからと思っていました」
「社員寮……、新しいお住まいも探すということですね」

加賀谷さんの声のトーンが変わる。きりりとした表情は見惚れるほど綺麗だ。

「突然ですが、お願いがあります。小枝さん、俺と結婚してもらえませんか?」
「は?」
「俺と結婚してほしいんです。きみにしか頼めません」
「え、ええ、と、あの、ちょっと」

結婚? それは私と? でも待って、私とこの人はお客さんと店員の関係で、今まで一度だって男女として会ったり話したり出かけたりしたこともなくて……。
狼狽にする私にの手を加賀谷さんが力強く取った。ぎゅっと握られ、心臓が跳ねる。

「俺と三年間の契約結婚をし、イタリアに行きましょう」

契約結婚、イタリア……。私とこの人が?
仕事も住む場所もなくし、混乱の極みにいる私に、それらパワーのある言葉たちの処理は簡単ではなかった。
もうダメ。キャパオーバーです。