私が死んだら博巳さんはひとりになってしまう。守れなかった、救えなかったと自暴自棄になってしまうのではなかろうか。それは絶対に駄目だ。
私だってこのまま死んだら、もう博已さんに会えない。

『私が消えたら日本の外務省が動くわ』

ナイフの切先を背中に感じながら、私は一世一代の大嘘を吐くことにした。眉を吊り上げ、きつく目の前の男を睨みつける。

『私はただの職員の妻じゃない。私自身がエージェントよ』

私の後ろで女が非常に汚いスラングで『バカじゃないの?』という意味合いの言葉を呟いた。目の前で男がわざとらしく噴き出す。
馬鹿にしてくれて結構。信じようが信じまいが構わない。私は男を鋭くねめつけ、毅然とした口調で続けた。

『あなたたちが私を逆恨みして殺そうとしているなら、バカな選択だわ。ヴァローリ議員は遅かれ早かれマフィアとの繋がりの疑いで捜査の手が及ぶ。逃げ切れても権威は失墜する。あなたたちも終わりよ』
『おまえはそんな心配しなくていい。自分の死体が魚の餌になるのか、豚に食われるのかだって心配する必要はないんだ』

物騒な言葉を吐かれ、背中に汗が伝うのを感じた。
怖い。だけど、ここでおとなしく震えていても結果は同じだ。

隙を見て、背後の女から逃げなければならない。ナイフは危険だが、命を取られるくらいなら、腕や脚を切りつけられても構わない。ただ、怪我を負えば逃走が難しくなる。痛みで気力も萎えるかもしれない。それに今は見えないが、男は拳銃を持っている可能性がある。拳銃で撃たれたらおそらくその場で終わりだ。

『くだらない話は無視しろ。移動するぞ』

男が車のある外へ向きなおろうとした瞬間だ。

頭上に影を感じた。