市場に買い物に行こうかと思ってやめた。昨晩のことがあったばかりだ。ひとりでうろつかないほうがいいだろう。マンションにあるのは、わずかな野菜とサラミ、パン、乾燥パスタだけ。この材料でソースを作り、博已さんが帰ってきたらパスタをゆでようと決めた。
博已さんはいつもより遅く帰宅した。昨日の件で、何かあったのだろうかと心配だが、うかつに聞けない。

「おかえりなさい」
「遅くなった。夕食は食べていないのかい?」
「一緒に食べようかと思って」

ジャケットをかける博已さんの背中を見つめ、私は思い切って口を開いた。

「博已さん、私、日本に帰ります」

博已さんはしばらく背中を向けたまま動かなかった。言葉も返ってこない。やがて低い声で「わかった」とつぶやいた。
それから、ゆっくり振り向いた彼の顔はどこかくたびれたように見えた。

「明日以降、上司に連絡して調整する。帰国の段取りがつくまではなるべくここから出ずに過ごしてほしい」
「わかりました」
「きみには不本意だろうが、その……、俺との離婚はもう少し待ってほしい。外務省の保護対象者として扱うためにも婚姻関係は簡単に解消しない方がいい」

離婚という言葉に胸がぐっと詰まったけれど、唇をかみしめ静かに頷いた。

「わかりました」

無言に耐えかねて、私は敢えて明るい声で言った。

「あるものなんですけれど、夕食ができますよ。食べましょう」
「ああ、……買い物も行けなかったよな。気が利かなくてすまない」
「いいえ! あ、明日は少し買い物をしてきてくださいね。野菜とお肉を」

うつむいた彼の寂しげな表情を見ないように、私はキッチンに入った。大丈夫。食事をしたら少し元気が出る。
私と博已さんのために、残された日々を平穏に過ごせるよう努力しなければ。
ふたりでそれぞれ、先に進むのだ。