言葉に迷うように菊乃はを薄く開けたが、すぐにぎゅっとかみしめた。なんともいえないその様子に俺は楽しい時間の終焉を感じていた。

「信頼関係を損なったと思っている。すまなかった」
「いえ……私は」
「さらに面倒事に巻き込んでしまった」

俺は頭を下げた姿勢のまま言った。本当は口にしたくない言葉を。

「菊乃、きみは日本に帰国できる」
「え……日本に……?」

問い返す菊乃の声は驚きと混乱で泣きそうに聞こえた。その顔を見られずに俺は続ける。

「ヴァローリの秘書にきみはマークされた。きみがメモをろくに見ていなくても、向こうは見て理解したものだとしてきみを追うだろう。監視されるかもしれない。すぐに身の危険が及ぶようなものではないと思いたいが、いっそうきみは身辺に気を付けなければいけなくなった」
「そんな……」
「日本にまでは追いかけてこないだろう。俺の上司に話を通しておくから、帰国すれば組織が守ってくれる。安全だ」

菊乃は明らかに迷っているようだった。普通に考えたら帰国したいに決まっている。ただでさえ、俺たちは契約という関係で夫婦になったのだから。
その関係が変化しそうな矢先だったとしても……。

「なにより、俺のことを信用できないだろう。危ないことを一切合切黙って、きみをイタリアまで連れてきたんだから」

漏れた言葉は自嘲的に響いた。菊乃のため、不安にさせないように黙っていた。
しかしそれは方便。結局のところ、菊乃についてきてほしかったから黙っていたのだ。楽しいことだけ提示してプレゼンしたのだ。契約違反なのは俺だ。

「博已さん……私……」
「数日うちに決めてくれると助かる」

俺はそう言って席を立った。
菊乃を置き去りにマンションを出て、ひたすら市街を歩く。観光客の多い通りをわざと歩いた。夜でも人が多く、喧噪がざわついた心にちょうどいい。

菊乃を解放すべきだ。
彼女が好きなら、安全な土地へ返すべきだ。
それが俺のせめてもの償いだから。