無口な彼、お利口な彼女

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6時間目、選択体育の授業はバスケだった。
待ち時間、コート脇でよその試合を眺めながら、未央は考える。

昨日の帰宅途中、繋いだ手のひらの感触、初めて聞いた淳平の気持ち

“俺も期待に応えたい”ーー

道端でぼろぼろと涙をこぼしたのは、小学1年生の夏休みの初日、生まれて初めてのラジオ体操に遅刻してしまったとき以来だった。視界を滲ませるフィルターの向こうに、明らかに慌てている様子の淳平が見えた。

(泣いちゃった。うれしいのに。)

試合終了の笛が鳴る。交代だ。次は未央たちのチームに入れ替わる。クラスメイトに促され、ぼんやりしたままコートに入った。
未央は運動神経は特別良くも悪くもない。握力が多少平均より強く、弱いほうが可愛らしいのかなぁなどと思春期らしい思いにかられたことはあるが、それもとりたてて珍しい数字でもない。
ただ、サポートが得意で、パス回しするのに良い場所に毎回いた。今日も、どうやったら相手チームを出し抜けるか、味方を最大限アシストできるかに頭をフル回転させて動いていた。
ほんの一瞬を除いて。

「高橋!!!」

呼ばれた声と衝撃が同時に届く。不意打ちで全てが振動した。数秒間、何が起こったのか理解できなかったが、どうやらパスを受け取ったつもりが距離感を見誤っていたらしい。反射で多少顔を背けたが衝突は避けられず、受け取り損ねたボールが左上側頭部にぶつかった。
倒れたあともグラグラ揺れる視界、駆け寄ってくる複数の足、運動靴の底のゴムが床を擦る音。
ああ、恥ずかしいなと、思っているうちに意識が途切れた。

***


この期に及んで淳平のことを考えていた

バスケのボールが大きいから、ああ、これをいつも簡単に扱ってるよなぁ、淳平が持ってるとすごく軽そうなのに、重たいなぁなんて


***

目が覚めると、清潔な匂いと眩しいくらいの白に包まれていた。保健室のベッドに寝かされている。チャイムが鳴っている。何を知らせるチャイムだろうか。今は何時だろうか。授業は。
未央は考える。

「あ、目ぇ覚めたね!今日のは災難だったねぇ!」

養護教諭・嶋田葉子の、突き抜けて明るい声が響いた。

「ちょーっとだけ強くぶつけちゃったねぇ。
 気分はどう?」

普段通り軽い調子で話しながら、嶋田は未央の頭に何度か角度を変えてやさしく触れ、正面から視線をチェックするなど、未央の現況をてきぱきと確かめる。

「けっこう酷かったんですか?わたし..」

「ウウン、もう大丈夫よー。
 とは言っても一応、帰ったらおうちの人に頭ぶつけたこと伝えてね。
 今日予定は?落ち着くまでずっといて良いから。保健委員の子が17時くらいに来るから、それより早く出るなら鍵かけといて〜」

そう言うと嶋田は保健室を出ていった。

気分は悪くない。
もう少し寝ていたい。

ぼんやりしているうちにスマホが短く振動した。通知画面に淳平のアイコンが見えた。

『部室寄ってから帰る。待ってて』

了解!

そう伝えるスタンプだけ押すと、未央はもう一度ベッドに突っ伏した。
会えるのは嬉しい。けれど会いたくない。
彼の言葉でこれ以上動揺するのが怖い。また目の前で涙を流してしまい、今度こそ距離を置かれるのではないか。


未央は初めての交際相手が淳平であり、彼しか知らない。なので彼女にとって、恋人とはどうあるべきかという概念は友人知人のよもやま話やドラマなどのフィクションから得られた情報で構成されている。それによると、恋人同士というものは、言葉や空気や経験やときには肌を交わして関係性を育んでゆくものではないか、と思う。友情でもそうだが、その過程で傷つくことも癒やされることもあるだろう。お互いがこの関係を続けてゆきたいと思っているならば、それぞれ模索しながら乗り越えて行くのだろう。
しかし今、未央たちにはその経験が非常に乏しかった。幼馴染でほぼきょうだい同然で過ごしてきたふたりだから、その居心地の良さに甘んじて今まで過ごしてきてしまった。
もっと言葉を交わしたい、肌だって、とは思うものの、その過程で失敗するのが怖い。
乗り越えられない、と淳平に判断されるのが怖い。
未央自身は乗り越える自信がある。何があっても。しかし、淳平から見限られることがあるようなら、その恐ろしさから自分からギブアップしてしまうかもしれない、と思っている。
嫌われる前に嫌う、我ながらまるで幼稚な駆け引きだと思う。そんな精神レベルでこの先やっていけるのだろうか。

「自信ないなぁ...何もかも」

真っ白な部屋でひとりつぶやく。
保健室の入り口からベッドまでの視界を遮るかたちでカーテンが掛かっている。そのカーテンがふわりと揺れた。誰かがそっと引き戸を開けて、入ってきたようだ。

「高橋さん」

聞き覚えのある声がカーテンの向こうから聞こえた。声の主は、その薄い布を開く前にもう一度尋ねた。

「開けて大丈夫?」

「....村松くん?」


カーテンが静かに開いた。