強い風が吹いた。
「あ!」
気づいたときにはもう、ベランダの手すりの向こうへふわりと飛んで行くところだった。
「あーあ。」
今、洗濯ばさみで留めようとちょっと目を離しただけだったのに。
「拾って来なきゃ。」
私はひらりひらりと飛んで行く風呂敷を目で追った。
鮮やかなターコイズブルーが、澄んだ海を行く一匹の魚のように揺れて、波間に消えた。
「…血がついてた?」
「そう。これなんだけど。」
「ほんとに血か?」
手塚さんは私からその風呂敷を受け取ると、触ってみたり、日に透かしたりしていたが、
「…うーん、まあ、そう言われると確かにそれっぽいな。」
と言った。
「でも、大家さんがこれを落としたのはついさっきのことでしょ。」
「うん。」
「この血は、まあほんとに血だとするとだけど、結構時間が経ってるように見えるけど。」
その染みは完全に乾いて茶色く変色し、固くなっている。
「うーん…。そうなんだよねえ。」
「どこから落としたんだっけ?」
「五階のベランダ。」
「五階も使ってるんだ。」
「ほとんど四階で暮らしてるけど、五階のベランダの方が大きいから、洗濯物はそっちに干してる。」
「へえ。」
手塚さんは、今日はお休みなのだそうだ。ほとんどフリーランスみたいなものなので、ルールを作らないとオンオフが切り替えらない、と言っていた。それで基本、土日は休みとしているとのこと。朝も大体決まった時間に、居住スペースから仕事スペースに『出勤』するのだそうだ。
「うーん。なんだろう。確かに気になるね。」
「でしょ。」
「どこに落ちたの?」
「ベランダがある方の通り。」
「あの辺だと、戸建てが並んでるね。」
「うん。結構、道の端の方まで飛んで行った。」
「そっか。」
そう言って手塚さんはまた風呂敷を眺めていたが、
「これは何?」
と角に染め抜いてある文字を指差して私に聞いた。
「水に…名、かな?」
「うん。まあ、何のことかは分からない。おばあちゃんの持ち物だったからねえ。誰かの名前か、…お店の名前とか?」
「まあ、何かの名前なんだろうな。」
「うん。」
そのとき、デスクの方に置いてあった手塚さんのスマートフォンが鳴った。よいしょ、とソファから立ち上がり、彼はデスクに向かった。
「あ、もう出掛ける時間?」
と私が聞くと、そろそろだね、と返って来た。手塚さんはこれから、勉強会みたいなものに行くのだそうだ。
「…大家さんは?今日は何するの?」
ガサゴソとバッグに、ノートパソコンやらスマートフォンやらを詰め込みながら手塚さんが聞いた。
「ん、今日は買い物に行こうと思ってるよ。」
「そっか。」
「うん。」
「気を付けてな。」
「はい。」
一緒に手塚さんの部屋を出ると、彼は下に、私は上に戻った。
変なの、私は小さく笑った。
「よし、じゃあ着替えるか。」
今日はちょっと、オシャレして、銀座あたりにでも行ってみようかと思っている。
週明け、手塚さんから連絡があり、私たちは一階で待ち合わせをしていた。
「一応、そのままとっておいた。」
「洗わないで?うん、それでいいと思う。」
あの風呂敷を持って来て、と手塚さんは私に言った。
「で、どうするの、これ?」
「とりあえず、大家さんがこの風呂敷を拾ったところに行ってみよう。」
それで私たちは建物を出ると右へ進み、角まで来たところで左に曲がった。
拾ったのはここ、と私が案内すると、ずいぶん飛んだねえ、と手塚さんは言った。それからしばらくきょろきょろと周囲を見回したり、そのへんを歩き回ったりしていた。私はヒマだったので、最近ハマっている『宝探し』をやっていた。
「…何それ?何拾ってるの。」
かがみ込んでいる私に手塚さんが声を掛けてきた。
「これ?いい棒が落ちてたから拾った。」
「いーぼー?」
「うん。いい棒。」
「ああ…いい棒?」
「そうそう、いい棒。」
「そっか…っていや、分からないから。」
「いい棒だって。」
「うん…あ、そう…。」
ちょっと見せて、と手塚さんは手を出した。はい、と棒を渡すと、ふうん、これがいい棒ね、このあたりに木なんかないのに、こういうのってどこから来るんだろう、と言いながらくるくる回していた。
「どこで拾ったの、これ。」
「そこ。」
「ふうん。」
「いい石もあった。」
「…はいはい。いい石ね。…うん、もう驚かない俺がいます。」
「こういうのをね、オシャレに飾るの。それが流行ってるの。」
「いや…良く分かんないけど、そういうのって普通、海岸とか山とかで拾ってきたヤツじゃなくて?こんな近所の側溝でいいの?」
「まあ、一見しただけでは分からないから。出身地は。」
そっか、と言うともう気が済んだのか、手塚さんはまたその辺をふらふらしていたが、私のいるところに戻って来ると、
「うーん、やっぱりこの家かな。」
「え?」
「ベランダが道に面しているのは、この家だけだからね。」
「え?」
そう言うと、小関、と表札にある家に近づき、インターフォンのボタンを押した。
「え。何するの?」
「ちょっと聞いてみるだけ。」
少し間が合って、中から、はい、と女性が出て来た。すると手塚さんは、
「あ、突然すみません、これが外に落ちていたもので。こちらのお宅のものかな、と思いまして。」
と言って私の風呂敷を手渡した。それを受け取るとその女性は、
「ああ、そうですね、うん、うちのだと思います。まあ、ご親切にありがとうございます。」
そう言って頭を下げた。私が驚いて手塚さんを見上げていると、その女性が私に言った。
「あれ、もしかして、夏枝さんのところのお孫さん?」
「え?あ、ああ、そうです、夏枝は祖母です。」
私がそう答えると、
「やっぱり!…おばあちゃん?おばあちゃん!夏枝さんのお孫さんが来てくれたよ!」
その女性は奥に向かってそう声をかけ、どうぞどうぞ、上がって上がって、と私たちに言った。
数分後、私たちは小関家のリビングのソファに座っていた。
「ああ、夏枝ちゃんのところの。まあ、本当に大きくなったわね。すっかり大人だわねえ。」
おばあちゃんが私を見てにこにこしながら言った。
おばあちゃんに会って思ったけれど、小関さん、という名前には私も何となく憶えがあった。最後に会ったのは私がずいぶん小さい頃だと思うが、祖母と交流の合った人だと思う。
「もう覚えてないと思うけどね、あなたが赤ちゃんの頃は、抱っこさせてもらったりしてたのよ。」
玄関で応対してくれたおばさんが言った。このおばあちゃんの娘さんらしかった。私の母くらいの年代だろう。
「夏枝ちゃんは、もうね。」
「あ、はい。…そうですね、もう結構経ちますね。」
「そうですよねえ。お葬式には行かせていただきましたけど…。」
「そうでしたか。それはありがとうございます。」
そんな話をしていたら、廊下の方でドタドタと走る音がして、リビングのドアが開いたかと思ったら、小学生になったかどうかくらいの男の子が顔を出した。
「ただいま!」
「ああ、そうちゃん、おかえり。」
そうちゃん、と呼ばれた男の子の後ろから、その子のお母さんらしき若い女性が続いて顔を出した。
「あ、お客さん?」
「うん、そう。おばあちゃんの昔のお友達のお孫さん。」
私は、初めまして、と頭を下げた。
「あ、初めまして、恭子です。」
その人も頭を下げ、にこっとした。そして傍らでもじもじしている男の子に、ほら、ちゃんとご挨拶しなさい、と促した。その子は私と手塚さんを交互にちらちらと見ながら、困ったように母親を見上げた。
「ほら、ご挨拶出来ないの?教えたでしょ。初めて会った人には何て言うんだっけ?」
「…。」
「こら!言えないの?初めましても自分の名前も言えないの?お教室でも練習したでしょ?」
「はじめまして…。」
「もっと大きな声で!それじゃお客さん聞こえないよ?」
「あ、あの。」
私は思わず声を掛けた。
「だ、大丈夫です、聞こえましたし、はい、ね、ちゃんとご挨拶出来てすごいね。」
ははは、と下手な笑顔でそう言った私を、恭子さんは一瞥し、すみません、と小さく言った。
「いえいえそんな。」
ねえ、と手塚さんを見ると彼は、ん?と私を見て、それから肩をすくめた。んもう!この自由人め!と私が手塚さんを睨みつける横で、恭子もういいから、そうおばさんが恭子さんに声を掛けた。
「その場で言わないとならないの。そうしないと分からないの。そうしろって私も言われてるの。」
恭子さんは表情も硬くそう言った。恭子、となおもおばさんが窘めると、
「…私、ご飯作らないと。今日は宏隆さん、早帰りの日だから。失礼します。」
そう言って恭子さんは頭を下げ、奥へと消えて行った。ママ、と男の子が慌ててその後を追った。
娘なのよ、とおばさんはその背中を見送り言った。
「結婚してしばらく九州の方とか京都の方とかにいたんだけどね、最近東京に戻って来て。今はね、うちでみんなで住んでるのよ。」
騒がしくてごめんなさいね、と困ったような顔をしながらも、その言葉には嬉しさも滲んでいるように思った。この家では今どき珍しく、四世代が一緒に暮らしているらしかった。
ああ、そうなんですね、と相槌を打ちながら、ふと手塚さんを見ると、私たちの話など聞かず、全然別の方を向いていた。テレビの横にある腰高窓の方をじっと見ているようだった。
小関さんの家を出た帰り、こっち側ってあんまり来たことない、と手塚さんが言うので、周囲を散歩してみることにした。住宅地の奥の方に進んで行くと、私にとっては懐かしい公園に出た。
公園に一歩入ると、わあ!と言って手塚さんが駆け出した。すべり台に向かって行ったので滑るのかと思ったら、
「このすべり台、設置から何年経ってるの…?耐久性とか、どうなってるんだろう…。」
と怯えた顔で言った。それから次々遊具を回っては、
「あ!このシーソーも…!朽ち果てた木の板…?怖っ!」
「ブランコ…?だよね、俺、この形式は見たことないわ…。」
と私の子どもの頃から何も変わっていないこの風景を見て、ある意味楽しそうだった。
「この看板も震える…ここまで錆びた感じ、滅びの呪文が書いてあるんじゃないよね?…えっと、みなのこどものみらいのために、しぜんをのこそう?自然なんてどこにあるんだ?」
「昔はもっとあったんじゃない?」
「まあ…地球の話をしているのかも知れないしね、うん。…え!嘘だろ、枠しかないフェンスって初めて見たんだけど。」
そう言ってまた走って行ってしまった。
…きっと、可愛い子だったとは思うけど。手塚さんが公園で遊んでいたような頃は、理屈っぽいヤツだな、と周りには思われていたに違いない、と思った。
それから二日経った日の午後、私はまた手塚さんの部屋に居た。
「ほんとに戻って来たよ。」
「うん。」
私の手には、おばあちゃんの風呂敷があった。
あの日、公園で走り回った手塚さんは、帰り道、あ、そうだ、おばあちゃんの風呂敷、小関さんちに置いて来ちゃってごめん、でもすぐ戻って来ると思うよ、と言っていた。今朝になって、小関さんちのおばさんがうちを訪ねて来た。そして、ごめんなさいね、これうちのじゃなかったみたい、両隣の家の人も分からないって言うのよ、他に落とした方の心当たりないかしら、ときれいに洗濯された風呂敷を私に返してくれた。
「でも、どうして?」
「ん?」
「なんで戻って来ると思ったの?」
ん、と手塚さんはデスクチェアに座ったまま、手を頭の後ろで組み、
「それはまあ、あの家に同じものが二枚あることに、いずれ気づくだろうと思ったから。」
そう言うと、二枚?と聞いた私の問いには答えず、何事かを考え始めたようだった。
そのままの姿勢で椅子を左右に回転させていた手塚さんだったが、ふと止まると、
「あ、そうだ、大家さん、まだ持ってる?こないだのいい棒。」
と私に聞いた。
「いい棒?」
「うん。」
「そこのテレビの横のペン立てにあるよ。」
と私がソファの前のテレビを指差すと、
「がー!やめてくれ、俺の部屋にゴミを置いてくの。」
ああもう、いい石まで…とぶつぶつ言いながら、手塚さんはいい棒を手に取って眺めていた。しばらくそんなことをしていた手塚さんだったが、壁の時計を見上げ、俺ちょっと出掛けて来る、と言うと部屋を出て行ってしまった。それで私も部屋に戻って来た。
「あれ?なんかいつもと雰囲気違う。」
自分の部屋の鍵を掛けながら、手塚さんが私を見て言った。
「そ、そう?」
何が違うんだろう、と首をかしげていた手塚さんだったが、まあいいや、行こう、と言うと階段を下り始めた。
「…。」
少し、ほんの少しだけメイクを頑張って来てしまった。気づかれなかったか…。
週末のことだ。私たちはまた、小関さんの家に居た。小関家を訪ねた手塚さんは、おばあちゃんと、ちょっとお話させてもらっていいですか、と言った。
「あら、また来てくれたのね。」
小関さんのおばあちゃんは、もうかなりな歳だと思うのだけど、声も喋り方もとてもしっかりしていた。
「おばあちゃん、こんにちは。また来てしまいました。」
「いいのよ、お話する人がいると嬉しいわ。」
奥の方で子どもが走り回る音がする。
「ああ、すみません。」
小関さんのおばさんはお茶を並べ終わると、よいしょ、と腰を上げて部屋を出ようとした。すると手塚さんが、
「ああ、お母さんもどうぞご一緒に。」
と声を掛けた。
「あら、私もいいの?どうしたのかしら。おばあちゃんに何か聞きたいことがあるって。」
「ええ、急にまたすみません、…あ、これなんですが。」
そう言うと手塚さんは、私のおばあちゃんの風呂敷をテーブルの上に出した。
「ああ、それ。ごめんなさいね、うちのかと思ったの。そしたら、うちのはあるよっておばあちゃんが出して来てね。悪いから返して来たらって言うもんだから。」
とおばさんが詫びた。
「いえ、いいんです。僕が勝手に持って来たんですから。」
「この風呂敷がどうかしたの?」
「はい。この風呂敷について、おばあちゃんにちょっとお聞きしたいことがありまして。」
手塚さんはおばあちゃんの方を向くと、にこっとした。
「何でしょう。」
おばあちゃんも頷いて、そう言った。
どすんどすん、と床が響いて、笑い声が聞こえた。手塚さんは顔を上げると、音のした方を向いた。
「ああ、ごめんなさいね、颯太が遊んでいて。」
「いえ、いいんです。…颯太くんっていうんですね。今おいくつですか。」
「七歳です。一年生になりましてね、もうすぐ二年生です。」
「そうですか。元気で可愛いですよね。」
「男の子ですからねえ。やんちゃで困ります。まあ、それがまた可愛いんですけどねえ。」
そう言っておばあちゃんは笑った。うんうんと手塚さんは頷いて、まあ男の子なんてそんなもんです、と笑って、それから、
「…じゃあ、本当につらかったですよね。」
と言った。
「え?何が?」
とおばさんがびっくりして手塚さんを見た。
笑顔を湛えたままのおばあちゃんは、じっと手塚さんを見ていた。それから言った。
「…ええ。…本当にね。」
「だから、なんですね。」
「はい。」
おばあちゃんは笑った。
「この風呂敷を持っているということは、私の昔からの知り合いでしょうからねえ。」
「はい。」
「どうしたらいいか…どう言ったらいいか、分からなかったのよ。だから…。」
「ええ。」
「気づいてくれるといいな、と思ったのよねえ。」
そう言って、ふうっとため息をついた。
「このあたりにお住まいになって、長いんですか。」
「ええ、そうよ。生まれたときからここにいる。もう八十年以上になるわね。」
そうですか、と手塚さんは頷いて風呂敷を広げると、
「ここにある文字なんですが。」
と風呂敷の角に染め抜いてある文字を指差した。
「はい。」
「あ、僕、図書館で調べて来ました。」
と手塚さんは言うと、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「これは、このあたりの歴史について書かれた本をコピーしてきたものです。八十年以上お住まいと言いましたか、そうなると、この風呂敷をもらったのは、えっと、六十年ほど前ですか?」
広げた紙を見ながら、手塚さんは言った。
「ああ、そうね、確か、二十歳は過ぎていたかしらねえ。」
「大事にされて来たんですね。」
「ええ。」
「ん?…もらった?」
私は手塚さんに聞いた。手塚さんは、そう、と頷くと、
「この風呂敷はね、ここの町名が変更になったときに、このあたりの人たちに記念に配られたものだ。」
と言った。
「町名が…変更になったの?」
手塚さんは手にした紙のしわを伸ばし、テーブルに置いて、そうなんだ、と言った。
「このあたりはそれ以前、水に名、と書いて、みな、と呼ばれていたんだよ。」
「…みな?」
ここ、とコピーを指しながら彼は言い、あの公園で見た看板には、皆の子ども、じゃなくて実は、水名の子ども、って書いてあったんだ、と言った。
懐かしいわねえ、とおばあちゃんが言った。
「そうなのよ、このあたりは水名と呼ばれていたのよ。私なんかはそっちの方が馴染みがあるわね。」
「水名の名前が消えるから、ということだったんでしょうか、その名を染めた風呂敷を配ったんですね。」
「ええ。」
「つまり、この風呂敷を持っている、ということは、水名の時代からここに住んでいる人、ということになります。」
「ええ。」
「だからあの日、おそらくおばあちゃんはベランダに居たんだと思いますが、この風呂敷が飛んできたのを見て、自分のものとすり替えることを思いついたんですね。」
「すり替える?」
私とおばさんが同時に言った。
「ええと、なんでしたっけご主人のお名前は?」
「手塚です。」
「…ご主人?」
そこに引っ掛かった私をつつき、
「まあそのあたりはいいとして、とにかく僕は手塚といいます。」
と手塚さんは小さく頭を下げた。
「あ…はい、ええと、手塚さんね、その、さっきからちょっと何の話をしているのか分からなくて。おばあちゃんは分かっているみたいだけど。」
「あ、すみません、最初からお話しします。」
そう言って手塚さんは、いただきます、とぬるくなったお茶を飲んだ。
「…先週の土曜日でしたか、大家さん、あ、僕は今夏枝さんの建てたビルに部屋を借りています。つまり、こちらは僕の大家さんになります。」
「ああ、そうなの。ご主人じゃないの?」
「はい…すみません…。」
おばさんは不思議そうに私たちを眺めた。
「まあ、とにかく先週の土曜日のことです。大家さんは、五階のベランダから、洗濯したこの風呂敷を風で飛ばしてしまいました。この風呂敷は風に乗って、お宅の前の道に落ちました。そのとき、ベランダからそれを見ていたんですね?」
おばあちゃんが頷く。
「この風呂敷を見たおばあちゃんは、この色ですからね、あの水名の風呂敷だとすぐに分かった。そして、落とした人が探しに来るだろう、と思いました。そしてこれを持っているということは、その人は、昔からの自分の知り合いである、と思いました。それで、あるメッセージを込めて、自分がずっと持っていた同じ風呂敷とすり替えました。」
「メッセージ?」
おばさんが聞いた。
「僕がここに置いていったこの風呂敷を、洗濯してくださいましたね。ずいぶん汚れていたかと思うんですが。」
「あ…ええ、何かの汚れがこびりついていましたが…。あ、ネットには入れて洗いましたよ。」
「はい、大丈夫です。この通り、すっかりきれいになっていました。」
手塚さんは風呂敷を広げて見せた。
「うん、良かった。」
「でも、これは大家さんが飛ばしたものではなく、こちらのおばあちゃんが以前から持っていたものです。」
「そうなの?」
とおばさんはおばあちゃんに聞いた。代わりに手塚さんが答えた。
「いつからか、それは分かりません。でもおばあちゃんはこの風呂敷を大事に持っていました。この…颯太くんの血がついた風呂敷を。」
「颯太の…血…?」
そのとき、リビングのドアが開いた。
「…だから、違うって言ったでしょう、おばあちゃん!」
声を荒げた恭子さんが立っていた。
おばあちゃんは顔を上げて、恭子さんを見た。それから手にしたお茶をゆっくり飲むと、
「…でもねえ、私には分からないわ。」
と静かに言った。
「だから!教育のためなのよ。確かにあのときは、宏隆さんが少し強く颯太を叩いてしまったかも知れない。でも、虐待とか、体罰とか、そんなんじゃないの!」
「恭子…。」
おばさんが言った。
「私も宏隆さんも、必死でこの子を育てているのよ。どうして分かってくれないの。可愛くないわけない。この子のためを思ってやってるの。どうして、どうしてそれを邪魔するの?」
「…邪魔をするつもりはないよ、ただ、こんな小さな子に、あれもこれもやらせる必要があるのかねえ。」
「今はそういう時代なのよ。」
「時代は変わっても、子どもは変わらないよ。」
「教育で変わるわ!」
「そうなのかねえ。」
恭子さんは両手で顔を覆うと、その場に崩れ落ちて泣き出した。
おばさんが近寄り、恭子、と声を掛けると、ソファに座らせた。
「…こちらで何があったのか、僕には分かりませんが。」
沈黙が続いたあとで、手塚さんが言った。
「おばあちゃんは、颯太くんが虐待されている、あるいはそれに近い状態である、と考えていたんですね。」
「だから違うって!」
恭子さんが叫んだ。
「あ、はい。実際のところは僕には分かりません。ただ、あなたのおばあさんはそう考えた。」
「…。」
「颯太くんがお父さんに叩かれ、出血したことがあった。おばあさんはそのとき、たまたま近くにあったこの風呂敷で血を拭いた。そしてそれをずっと持っていたんですね。」
「…ええ、そうよ。」
はい、と頷くと手塚さんは、
「ところでそちらの窓なんですが。」
と、テレビの横の腰高窓を指差した。
「…はい?」
「少し、開いていますね。」
「え?…ああ、そうですか?気がつかなかったけど。」
おばさんはそう言うと立ち上がり、窓を見に行った。そして、ああ、ほんとね、と言って、きっちり閉めようとした。
「ん…?あれ、閉まらないわ。…ああ、何か挟まってる。」
そう言うと挟まっていた紙屑を取り除き、窓を閉めた。みんな黙ってそれを見ていた。ありがとうございます、と手塚さんは言った。
「先日こちらにお伺いしたときも、今と同じように少し開いていました。…僕は、これもおばあちゃんがやったことだと思っています。」
みんながおばあちゃんを見た。おばあちゃんは黙って小さく頷いた。
「…なんでこんなこと?」
おばさんが聞いた。これは僕の想像なのですが、と手塚さんは前置きして言った。
「恭子さんのご主人…宏隆さんですか?いつも颯太くんを叱るとき…部屋中の窓を閉めていたんじゃないかと思います。…怒鳴り声が、外に聞こえないように。だからおばあちゃんは、その怒鳴り声を外の誰かに聞いてもらおうとして、窓がきちんと閉まらないよう、こんな細工をしたんだと思います。こんなふうに…紙屑や、小さな木の棒などを挟んで。」
彼は持って来た『いい棒』をテーブルに置いて、これはたまたま大家さんがこの家の前で拾ったものですが、と言った。
「この棒には、何かに挟まれたような二本の線があります。まあ、誰かに踏まれただけかも知れませんけれど。落ちていた位置としてはこの窓の下になります。」
そう言って窓に近づくと、その棒を挟んで見せた。
「この窓枠の幅には一致しているようです。」
「そんな…。」
「僕には子どもは居ないので分かりませんが…。叱る前に予め窓を閉めるというのは、誰もがすることなんですか?それだけ見るとなんだか、分かっていて隠している、そんな印象を受けます。」
そう言って、手塚さんはソファに戻った。
恭子さんが俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。頬に幾筋も涙が流れていた。
「…せに。」
「…はい。」
「…何も知らないくせに。」
「恭子。」
おばさんが咎めた。
「はい…。そう言われても、仕方がありません。」
「手塚さん、すみませんね。」
「いえ、いいんです。僕は教育のことは良く分かりませんが…。」
そう言って手塚さんは、少し考えているようだった。
「…分かりませんが、例えば、家庭内のような閉鎖的な空間では、強い力のあるひとりが決めたルールがその場全体のルールとして定着し、誰も疑問を持たなくなることがあるそうです。」
そしておばあちゃんを見て頷くと、言った。
「まだひとりでも疑問を持っている人がいるうちに、然るべき機関に一度相談してみては。」
「…そうだ、これ。」
小関さんの家を出るとき、私はふと思い出して、バッグの中を探った。
「颯太くんにチョコレート、あげてもいいですか?」
おばさんに聞いた。
「え?…いいんですか…?」
「ああ、はい、私も…私も人からもらっただけなんです。だから、お気になさらず。」
「あ…ええ…ありがとうございます。」
バッグからチョコレートの包みを取り出し、颯太くんに持たせた。
「いいの?」
颯太くんは祖母を振り返った。
「ん…。いいよ。…ありがとうしてね。」
「うん!ありがとう!」
「…あ!」
帰り道、ずっと黙ったままだった手塚さんが突然叫んだ。
「な、何!」
「今日、バレンタインデーじゃん!」
心臓が口から飛び出そうになった。
「そ、そうだっけ?」
「大家さん、まさか俺にチョコないの!?」
「え、あ、ごめん、よ、用意してなかったわー。」
「なんだよー、こんなにお世話になってる俺に。」
「…自分で言う?」
「誰からももらってないんだよ。頼むよ、ちょうだい!もう明日でもいいから!」
「え…ああ、うん…分かった。」
やった、と手塚さんは小さくガッツポーズをしてから、言った。
「…俺、さっきのがいい。」
「え?」
「さっき、あの子にあげたヤツがいい。」
「…いや、だって、どこの店のかも分かんないし…。」
私がわざとらしく首を捻って見せると、彼は言った。
「確かね、銀座に新しく出来た店だよ。」
「…嘘っ!」
そして今にもバクハツしそうな私を覗き込むと、
「お願いね。楽しみにしてるから。…あれ?そう言えば今日…いつもよりちょっと可愛くない?」
と笑った。
ああ、これはもう…意地悪なのか?
「あ!」
気づいたときにはもう、ベランダの手すりの向こうへふわりと飛んで行くところだった。
「あーあ。」
今、洗濯ばさみで留めようとちょっと目を離しただけだったのに。
「拾って来なきゃ。」
私はひらりひらりと飛んで行く風呂敷を目で追った。
鮮やかなターコイズブルーが、澄んだ海を行く一匹の魚のように揺れて、波間に消えた。
「…血がついてた?」
「そう。これなんだけど。」
「ほんとに血か?」
手塚さんは私からその風呂敷を受け取ると、触ってみたり、日に透かしたりしていたが、
「…うーん、まあ、そう言われると確かにそれっぽいな。」
と言った。
「でも、大家さんがこれを落としたのはついさっきのことでしょ。」
「うん。」
「この血は、まあほんとに血だとするとだけど、結構時間が経ってるように見えるけど。」
その染みは完全に乾いて茶色く変色し、固くなっている。
「うーん…。そうなんだよねえ。」
「どこから落としたんだっけ?」
「五階のベランダ。」
「五階も使ってるんだ。」
「ほとんど四階で暮らしてるけど、五階のベランダの方が大きいから、洗濯物はそっちに干してる。」
「へえ。」
手塚さんは、今日はお休みなのだそうだ。ほとんどフリーランスみたいなものなので、ルールを作らないとオンオフが切り替えらない、と言っていた。それで基本、土日は休みとしているとのこと。朝も大体決まった時間に、居住スペースから仕事スペースに『出勤』するのだそうだ。
「うーん。なんだろう。確かに気になるね。」
「でしょ。」
「どこに落ちたの?」
「ベランダがある方の通り。」
「あの辺だと、戸建てが並んでるね。」
「うん。結構、道の端の方まで飛んで行った。」
「そっか。」
そう言って手塚さんはまた風呂敷を眺めていたが、
「これは何?」
と角に染め抜いてある文字を指差して私に聞いた。
「水に…名、かな?」
「うん。まあ、何のことかは分からない。おばあちゃんの持ち物だったからねえ。誰かの名前か、…お店の名前とか?」
「まあ、何かの名前なんだろうな。」
「うん。」
そのとき、デスクの方に置いてあった手塚さんのスマートフォンが鳴った。よいしょ、とソファから立ち上がり、彼はデスクに向かった。
「あ、もう出掛ける時間?」
と私が聞くと、そろそろだね、と返って来た。手塚さんはこれから、勉強会みたいなものに行くのだそうだ。
「…大家さんは?今日は何するの?」
ガサゴソとバッグに、ノートパソコンやらスマートフォンやらを詰め込みながら手塚さんが聞いた。
「ん、今日は買い物に行こうと思ってるよ。」
「そっか。」
「うん。」
「気を付けてな。」
「はい。」
一緒に手塚さんの部屋を出ると、彼は下に、私は上に戻った。
変なの、私は小さく笑った。
「よし、じゃあ着替えるか。」
今日はちょっと、オシャレして、銀座あたりにでも行ってみようかと思っている。
週明け、手塚さんから連絡があり、私たちは一階で待ち合わせをしていた。
「一応、そのままとっておいた。」
「洗わないで?うん、それでいいと思う。」
あの風呂敷を持って来て、と手塚さんは私に言った。
「で、どうするの、これ?」
「とりあえず、大家さんがこの風呂敷を拾ったところに行ってみよう。」
それで私たちは建物を出ると右へ進み、角まで来たところで左に曲がった。
拾ったのはここ、と私が案内すると、ずいぶん飛んだねえ、と手塚さんは言った。それからしばらくきょろきょろと周囲を見回したり、そのへんを歩き回ったりしていた。私はヒマだったので、最近ハマっている『宝探し』をやっていた。
「…何それ?何拾ってるの。」
かがみ込んでいる私に手塚さんが声を掛けてきた。
「これ?いい棒が落ちてたから拾った。」
「いーぼー?」
「うん。いい棒。」
「ああ…いい棒?」
「そうそう、いい棒。」
「そっか…っていや、分からないから。」
「いい棒だって。」
「うん…あ、そう…。」
ちょっと見せて、と手塚さんは手を出した。はい、と棒を渡すと、ふうん、これがいい棒ね、このあたりに木なんかないのに、こういうのってどこから来るんだろう、と言いながらくるくる回していた。
「どこで拾ったの、これ。」
「そこ。」
「ふうん。」
「いい石もあった。」
「…はいはい。いい石ね。…うん、もう驚かない俺がいます。」
「こういうのをね、オシャレに飾るの。それが流行ってるの。」
「いや…良く分かんないけど、そういうのって普通、海岸とか山とかで拾ってきたヤツじゃなくて?こんな近所の側溝でいいの?」
「まあ、一見しただけでは分からないから。出身地は。」
そっか、と言うともう気が済んだのか、手塚さんはまたその辺をふらふらしていたが、私のいるところに戻って来ると、
「うーん、やっぱりこの家かな。」
「え?」
「ベランダが道に面しているのは、この家だけだからね。」
「え?」
そう言うと、小関、と表札にある家に近づき、インターフォンのボタンを押した。
「え。何するの?」
「ちょっと聞いてみるだけ。」
少し間が合って、中から、はい、と女性が出て来た。すると手塚さんは、
「あ、突然すみません、これが外に落ちていたもので。こちらのお宅のものかな、と思いまして。」
と言って私の風呂敷を手渡した。それを受け取るとその女性は、
「ああ、そうですね、うん、うちのだと思います。まあ、ご親切にありがとうございます。」
そう言って頭を下げた。私が驚いて手塚さんを見上げていると、その女性が私に言った。
「あれ、もしかして、夏枝さんのところのお孫さん?」
「え?あ、ああ、そうです、夏枝は祖母です。」
私がそう答えると、
「やっぱり!…おばあちゃん?おばあちゃん!夏枝さんのお孫さんが来てくれたよ!」
その女性は奥に向かってそう声をかけ、どうぞどうぞ、上がって上がって、と私たちに言った。
数分後、私たちは小関家のリビングのソファに座っていた。
「ああ、夏枝ちゃんのところの。まあ、本当に大きくなったわね。すっかり大人だわねえ。」
おばあちゃんが私を見てにこにこしながら言った。
おばあちゃんに会って思ったけれど、小関さん、という名前には私も何となく憶えがあった。最後に会ったのは私がずいぶん小さい頃だと思うが、祖母と交流の合った人だと思う。
「もう覚えてないと思うけどね、あなたが赤ちゃんの頃は、抱っこさせてもらったりしてたのよ。」
玄関で応対してくれたおばさんが言った。このおばあちゃんの娘さんらしかった。私の母くらいの年代だろう。
「夏枝ちゃんは、もうね。」
「あ、はい。…そうですね、もう結構経ちますね。」
「そうですよねえ。お葬式には行かせていただきましたけど…。」
「そうでしたか。それはありがとうございます。」
そんな話をしていたら、廊下の方でドタドタと走る音がして、リビングのドアが開いたかと思ったら、小学生になったかどうかくらいの男の子が顔を出した。
「ただいま!」
「ああ、そうちゃん、おかえり。」
そうちゃん、と呼ばれた男の子の後ろから、その子のお母さんらしき若い女性が続いて顔を出した。
「あ、お客さん?」
「うん、そう。おばあちゃんの昔のお友達のお孫さん。」
私は、初めまして、と頭を下げた。
「あ、初めまして、恭子です。」
その人も頭を下げ、にこっとした。そして傍らでもじもじしている男の子に、ほら、ちゃんとご挨拶しなさい、と促した。その子は私と手塚さんを交互にちらちらと見ながら、困ったように母親を見上げた。
「ほら、ご挨拶出来ないの?教えたでしょ。初めて会った人には何て言うんだっけ?」
「…。」
「こら!言えないの?初めましても自分の名前も言えないの?お教室でも練習したでしょ?」
「はじめまして…。」
「もっと大きな声で!それじゃお客さん聞こえないよ?」
「あ、あの。」
私は思わず声を掛けた。
「だ、大丈夫です、聞こえましたし、はい、ね、ちゃんとご挨拶出来てすごいね。」
ははは、と下手な笑顔でそう言った私を、恭子さんは一瞥し、すみません、と小さく言った。
「いえいえそんな。」
ねえ、と手塚さんを見ると彼は、ん?と私を見て、それから肩をすくめた。んもう!この自由人め!と私が手塚さんを睨みつける横で、恭子もういいから、そうおばさんが恭子さんに声を掛けた。
「その場で言わないとならないの。そうしないと分からないの。そうしろって私も言われてるの。」
恭子さんは表情も硬くそう言った。恭子、となおもおばさんが窘めると、
「…私、ご飯作らないと。今日は宏隆さん、早帰りの日だから。失礼します。」
そう言って恭子さんは頭を下げ、奥へと消えて行った。ママ、と男の子が慌ててその後を追った。
娘なのよ、とおばさんはその背中を見送り言った。
「結婚してしばらく九州の方とか京都の方とかにいたんだけどね、最近東京に戻って来て。今はね、うちでみんなで住んでるのよ。」
騒がしくてごめんなさいね、と困ったような顔をしながらも、その言葉には嬉しさも滲んでいるように思った。この家では今どき珍しく、四世代が一緒に暮らしているらしかった。
ああ、そうなんですね、と相槌を打ちながら、ふと手塚さんを見ると、私たちの話など聞かず、全然別の方を向いていた。テレビの横にある腰高窓の方をじっと見ているようだった。
小関さんの家を出た帰り、こっち側ってあんまり来たことない、と手塚さんが言うので、周囲を散歩してみることにした。住宅地の奥の方に進んで行くと、私にとっては懐かしい公園に出た。
公園に一歩入ると、わあ!と言って手塚さんが駆け出した。すべり台に向かって行ったので滑るのかと思ったら、
「このすべり台、設置から何年経ってるの…?耐久性とか、どうなってるんだろう…。」
と怯えた顔で言った。それから次々遊具を回っては、
「あ!このシーソーも…!朽ち果てた木の板…?怖っ!」
「ブランコ…?だよね、俺、この形式は見たことないわ…。」
と私の子どもの頃から何も変わっていないこの風景を見て、ある意味楽しそうだった。
「この看板も震える…ここまで錆びた感じ、滅びの呪文が書いてあるんじゃないよね?…えっと、みなのこどものみらいのために、しぜんをのこそう?自然なんてどこにあるんだ?」
「昔はもっとあったんじゃない?」
「まあ…地球の話をしているのかも知れないしね、うん。…え!嘘だろ、枠しかないフェンスって初めて見たんだけど。」
そう言ってまた走って行ってしまった。
…きっと、可愛い子だったとは思うけど。手塚さんが公園で遊んでいたような頃は、理屈っぽいヤツだな、と周りには思われていたに違いない、と思った。
それから二日経った日の午後、私はまた手塚さんの部屋に居た。
「ほんとに戻って来たよ。」
「うん。」
私の手には、おばあちゃんの風呂敷があった。
あの日、公園で走り回った手塚さんは、帰り道、あ、そうだ、おばあちゃんの風呂敷、小関さんちに置いて来ちゃってごめん、でもすぐ戻って来ると思うよ、と言っていた。今朝になって、小関さんちのおばさんがうちを訪ねて来た。そして、ごめんなさいね、これうちのじゃなかったみたい、両隣の家の人も分からないって言うのよ、他に落とした方の心当たりないかしら、ときれいに洗濯された風呂敷を私に返してくれた。
「でも、どうして?」
「ん?」
「なんで戻って来ると思ったの?」
ん、と手塚さんはデスクチェアに座ったまま、手を頭の後ろで組み、
「それはまあ、あの家に同じものが二枚あることに、いずれ気づくだろうと思ったから。」
そう言うと、二枚?と聞いた私の問いには答えず、何事かを考え始めたようだった。
そのままの姿勢で椅子を左右に回転させていた手塚さんだったが、ふと止まると、
「あ、そうだ、大家さん、まだ持ってる?こないだのいい棒。」
と私に聞いた。
「いい棒?」
「うん。」
「そこのテレビの横のペン立てにあるよ。」
と私がソファの前のテレビを指差すと、
「がー!やめてくれ、俺の部屋にゴミを置いてくの。」
ああもう、いい石まで…とぶつぶつ言いながら、手塚さんはいい棒を手に取って眺めていた。しばらくそんなことをしていた手塚さんだったが、壁の時計を見上げ、俺ちょっと出掛けて来る、と言うと部屋を出て行ってしまった。それで私も部屋に戻って来た。
「あれ?なんかいつもと雰囲気違う。」
自分の部屋の鍵を掛けながら、手塚さんが私を見て言った。
「そ、そう?」
何が違うんだろう、と首をかしげていた手塚さんだったが、まあいいや、行こう、と言うと階段を下り始めた。
「…。」
少し、ほんの少しだけメイクを頑張って来てしまった。気づかれなかったか…。
週末のことだ。私たちはまた、小関さんの家に居た。小関家を訪ねた手塚さんは、おばあちゃんと、ちょっとお話させてもらっていいですか、と言った。
「あら、また来てくれたのね。」
小関さんのおばあちゃんは、もうかなりな歳だと思うのだけど、声も喋り方もとてもしっかりしていた。
「おばあちゃん、こんにちは。また来てしまいました。」
「いいのよ、お話する人がいると嬉しいわ。」
奥の方で子どもが走り回る音がする。
「ああ、すみません。」
小関さんのおばさんはお茶を並べ終わると、よいしょ、と腰を上げて部屋を出ようとした。すると手塚さんが、
「ああ、お母さんもどうぞご一緒に。」
と声を掛けた。
「あら、私もいいの?どうしたのかしら。おばあちゃんに何か聞きたいことがあるって。」
「ええ、急にまたすみません、…あ、これなんですが。」
そう言うと手塚さんは、私のおばあちゃんの風呂敷をテーブルの上に出した。
「ああ、それ。ごめんなさいね、うちのかと思ったの。そしたら、うちのはあるよっておばあちゃんが出して来てね。悪いから返して来たらって言うもんだから。」
とおばさんが詫びた。
「いえ、いいんです。僕が勝手に持って来たんですから。」
「この風呂敷がどうかしたの?」
「はい。この風呂敷について、おばあちゃんにちょっとお聞きしたいことがありまして。」
手塚さんはおばあちゃんの方を向くと、にこっとした。
「何でしょう。」
おばあちゃんも頷いて、そう言った。
どすんどすん、と床が響いて、笑い声が聞こえた。手塚さんは顔を上げると、音のした方を向いた。
「ああ、ごめんなさいね、颯太が遊んでいて。」
「いえ、いいんです。…颯太くんっていうんですね。今おいくつですか。」
「七歳です。一年生になりましてね、もうすぐ二年生です。」
「そうですか。元気で可愛いですよね。」
「男の子ですからねえ。やんちゃで困ります。まあ、それがまた可愛いんですけどねえ。」
そう言っておばあちゃんは笑った。うんうんと手塚さんは頷いて、まあ男の子なんてそんなもんです、と笑って、それから、
「…じゃあ、本当につらかったですよね。」
と言った。
「え?何が?」
とおばさんがびっくりして手塚さんを見た。
笑顔を湛えたままのおばあちゃんは、じっと手塚さんを見ていた。それから言った。
「…ええ。…本当にね。」
「だから、なんですね。」
「はい。」
おばあちゃんは笑った。
「この風呂敷を持っているということは、私の昔からの知り合いでしょうからねえ。」
「はい。」
「どうしたらいいか…どう言ったらいいか、分からなかったのよ。だから…。」
「ええ。」
「気づいてくれるといいな、と思ったのよねえ。」
そう言って、ふうっとため息をついた。
「このあたりにお住まいになって、長いんですか。」
「ええ、そうよ。生まれたときからここにいる。もう八十年以上になるわね。」
そうですか、と手塚さんは頷いて風呂敷を広げると、
「ここにある文字なんですが。」
と風呂敷の角に染め抜いてある文字を指差した。
「はい。」
「あ、僕、図書館で調べて来ました。」
と手塚さんは言うと、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「これは、このあたりの歴史について書かれた本をコピーしてきたものです。八十年以上お住まいと言いましたか、そうなると、この風呂敷をもらったのは、えっと、六十年ほど前ですか?」
広げた紙を見ながら、手塚さんは言った。
「ああ、そうね、確か、二十歳は過ぎていたかしらねえ。」
「大事にされて来たんですね。」
「ええ。」
「ん?…もらった?」
私は手塚さんに聞いた。手塚さんは、そう、と頷くと、
「この風呂敷はね、ここの町名が変更になったときに、このあたりの人たちに記念に配られたものだ。」
と言った。
「町名が…変更になったの?」
手塚さんは手にした紙のしわを伸ばし、テーブルに置いて、そうなんだ、と言った。
「このあたりはそれ以前、水に名、と書いて、みな、と呼ばれていたんだよ。」
「…みな?」
ここ、とコピーを指しながら彼は言い、あの公園で見た看板には、皆の子ども、じゃなくて実は、水名の子ども、って書いてあったんだ、と言った。
懐かしいわねえ、とおばあちゃんが言った。
「そうなのよ、このあたりは水名と呼ばれていたのよ。私なんかはそっちの方が馴染みがあるわね。」
「水名の名前が消えるから、ということだったんでしょうか、その名を染めた風呂敷を配ったんですね。」
「ええ。」
「つまり、この風呂敷を持っている、ということは、水名の時代からここに住んでいる人、ということになります。」
「ええ。」
「だからあの日、おそらくおばあちゃんはベランダに居たんだと思いますが、この風呂敷が飛んできたのを見て、自分のものとすり替えることを思いついたんですね。」
「すり替える?」
私とおばさんが同時に言った。
「ええと、なんでしたっけご主人のお名前は?」
「手塚です。」
「…ご主人?」
そこに引っ掛かった私をつつき、
「まあそのあたりはいいとして、とにかく僕は手塚といいます。」
と手塚さんは小さく頭を下げた。
「あ…はい、ええと、手塚さんね、その、さっきからちょっと何の話をしているのか分からなくて。おばあちゃんは分かっているみたいだけど。」
「あ、すみません、最初からお話しします。」
そう言って手塚さんは、いただきます、とぬるくなったお茶を飲んだ。
「…先週の土曜日でしたか、大家さん、あ、僕は今夏枝さんの建てたビルに部屋を借りています。つまり、こちらは僕の大家さんになります。」
「ああ、そうなの。ご主人じゃないの?」
「はい…すみません…。」
おばさんは不思議そうに私たちを眺めた。
「まあ、とにかく先週の土曜日のことです。大家さんは、五階のベランダから、洗濯したこの風呂敷を風で飛ばしてしまいました。この風呂敷は風に乗って、お宅の前の道に落ちました。そのとき、ベランダからそれを見ていたんですね?」
おばあちゃんが頷く。
「この風呂敷を見たおばあちゃんは、この色ですからね、あの水名の風呂敷だとすぐに分かった。そして、落とした人が探しに来るだろう、と思いました。そしてこれを持っているということは、その人は、昔からの自分の知り合いである、と思いました。それで、あるメッセージを込めて、自分がずっと持っていた同じ風呂敷とすり替えました。」
「メッセージ?」
おばさんが聞いた。
「僕がここに置いていったこの風呂敷を、洗濯してくださいましたね。ずいぶん汚れていたかと思うんですが。」
「あ…ええ、何かの汚れがこびりついていましたが…。あ、ネットには入れて洗いましたよ。」
「はい、大丈夫です。この通り、すっかりきれいになっていました。」
手塚さんは風呂敷を広げて見せた。
「うん、良かった。」
「でも、これは大家さんが飛ばしたものではなく、こちらのおばあちゃんが以前から持っていたものです。」
「そうなの?」
とおばさんはおばあちゃんに聞いた。代わりに手塚さんが答えた。
「いつからか、それは分かりません。でもおばあちゃんはこの風呂敷を大事に持っていました。この…颯太くんの血がついた風呂敷を。」
「颯太の…血…?」
そのとき、リビングのドアが開いた。
「…だから、違うって言ったでしょう、おばあちゃん!」
声を荒げた恭子さんが立っていた。
おばあちゃんは顔を上げて、恭子さんを見た。それから手にしたお茶をゆっくり飲むと、
「…でもねえ、私には分からないわ。」
と静かに言った。
「だから!教育のためなのよ。確かにあのときは、宏隆さんが少し強く颯太を叩いてしまったかも知れない。でも、虐待とか、体罰とか、そんなんじゃないの!」
「恭子…。」
おばさんが言った。
「私も宏隆さんも、必死でこの子を育てているのよ。どうして分かってくれないの。可愛くないわけない。この子のためを思ってやってるの。どうして、どうしてそれを邪魔するの?」
「…邪魔をするつもりはないよ、ただ、こんな小さな子に、あれもこれもやらせる必要があるのかねえ。」
「今はそういう時代なのよ。」
「時代は変わっても、子どもは変わらないよ。」
「教育で変わるわ!」
「そうなのかねえ。」
恭子さんは両手で顔を覆うと、その場に崩れ落ちて泣き出した。
おばさんが近寄り、恭子、と声を掛けると、ソファに座らせた。
「…こちらで何があったのか、僕には分かりませんが。」
沈黙が続いたあとで、手塚さんが言った。
「おばあちゃんは、颯太くんが虐待されている、あるいはそれに近い状態である、と考えていたんですね。」
「だから違うって!」
恭子さんが叫んだ。
「あ、はい。実際のところは僕には分かりません。ただ、あなたのおばあさんはそう考えた。」
「…。」
「颯太くんがお父さんに叩かれ、出血したことがあった。おばあさんはそのとき、たまたま近くにあったこの風呂敷で血を拭いた。そしてそれをずっと持っていたんですね。」
「…ええ、そうよ。」
はい、と頷くと手塚さんは、
「ところでそちらの窓なんですが。」
と、テレビの横の腰高窓を指差した。
「…はい?」
「少し、開いていますね。」
「え?…ああ、そうですか?気がつかなかったけど。」
おばさんはそう言うと立ち上がり、窓を見に行った。そして、ああ、ほんとね、と言って、きっちり閉めようとした。
「ん…?あれ、閉まらないわ。…ああ、何か挟まってる。」
そう言うと挟まっていた紙屑を取り除き、窓を閉めた。みんな黙ってそれを見ていた。ありがとうございます、と手塚さんは言った。
「先日こちらにお伺いしたときも、今と同じように少し開いていました。…僕は、これもおばあちゃんがやったことだと思っています。」
みんながおばあちゃんを見た。おばあちゃんは黙って小さく頷いた。
「…なんでこんなこと?」
おばさんが聞いた。これは僕の想像なのですが、と手塚さんは前置きして言った。
「恭子さんのご主人…宏隆さんですか?いつも颯太くんを叱るとき…部屋中の窓を閉めていたんじゃないかと思います。…怒鳴り声が、外に聞こえないように。だからおばあちゃんは、その怒鳴り声を外の誰かに聞いてもらおうとして、窓がきちんと閉まらないよう、こんな細工をしたんだと思います。こんなふうに…紙屑や、小さな木の棒などを挟んで。」
彼は持って来た『いい棒』をテーブルに置いて、これはたまたま大家さんがこの家の前で拾ったものですが、と言った。
「この棒には、何かに挟まれたような二本の線があります。まあ、誰かに踏まれただけかも知れませんけれど。落ちていた位置としてはこの窓の下になります。」
そう言って窓に近づくと、その棒を挟んで見せた。
「この窓枠の幅には一致しているようです。」
「そんな…。」
「僕には子どもは居ないので分かりませんが…。叱る前に予め窓を閉めるというのは、誰もがすることなんですか?それだけ見るとなんだか、分かっていて隠している、そんな印象を受けます。」
そう言って、手塚さんはソファに戻った。
恭子さんが俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。頬に幾筋も涙が流れていた。
「…せに。」
「…はい。」
「…何も知らないくせに。」
「恭子。」
おばさんが咎めた。
「はい…。そう言われても、仕方がありません。」
「手塚さん、すみませんね。」
「いえ、いいんです。僕は教育のことは良く分かりませんが…。」
そう言って手塚さんは、少し考えているようだった。
「…分かりませんが、例えば、家庭内のような閉鎖的な空間では、強い力のあるひとりが決めたルールがその場全体のルールとして定着し、誰も疑問を持たなくなることがあるそうです。」
そしておばあちゃんを見て頷くと、言った。
「まだひとりでも疑問を持っている人がいるうちに、然るべき機関に一度相談してみては。」
「…そうだ、これ。」
小関さんの家を出るとき、私はふと思い出して、バッグの中を探った。
「颯太くんにチョコレート、あげてもいいですか?」
おばさんに聞いた。
「え?…いいんですか…?」
「ああ、はい、私も…私も人からもらっただけなんです。だから、お気になさらず。」
「あ…ええ…ありがとうございます。」
バッグからチョコレートの包みを取り出し、颯太くんに持たせた。
「いいの?」
颯太くんは祖母を振り返った。
「ん…。いいよ。…ありがとうしてね。」
「うん!ありがとう!」
「…あ!」
帰り道、ずっと黙ったままだった手塚さんが突然叫んだ。
「な、何!」
「今日、バレンタインデーじゃん!」
心臓が口から飛び出そうになった。
「そ、そうだっけ?」
「大家さん、まさか俺にチョコないの!?」
「え、あ、ごめん、よ、用意してなかったわー。」
「なんだよー、こんなにお世話になってる俺に。」
「…自分で言う?」
「誰からももらってないんだよ。頼むよ、ちょうだい!もう明日でもいいから!」
「え…ああ、うん…分かった。」
やった、と手塚さんは小さくガッツポーズをしてから、言った。
「…俺、さっきのがいい。」
「え?」
「さっき、あの子にあげたヤツがいい。」
「…いや、だって、どこの店のかも分かんないし…。」
私がわざとらしく首を捻って見せると、彼は言った。
「確かね、銀座に新しく出来た店だよ。」
「…嘘っ!」
そして今にもバクハツしそうな私を覗き込むと、
「お願いね。楽しみにしてるから。…あれ?そう言えば今日…いつもよりちょっと可愛くない?」
と笑った。
ああ、これはもう…意地悪なのか?