「子どもって面白いよね。」
 私はいつものように手塚さんの部屋の定位置、このソファに座り、コーヒーを飲んでいた。ブラインド越しに、午後の日差しが室内にこぼれている。まだ暖房をつけるほどではないけど、暖かな窓際がちょっと恋しいくらいの季節になって来たな、と思った。
 「どうした急に。」
 相変わらずキーボードを叩く手を止めることもないままの彼の声が、モニターの山の中から返って来た。私は先ほど見た、公園での様子を話した。
 「今その公園の横通ったらさ、小さい子が、外道!外道!って叫んでて。」
 「…外道?」
 彼が顔を上げた。
 「うん。良くそんな言葉知ってるよね。」
 「いや…。マジで?」
 手塚さんが気になって仕方ないみたいだったので、ふたりで公園に行ってみることにした。
 「ほら、あの辺の子たち。保育園?小さいよね。」
 私が指差した子どもの一団を見て、彼は
 「…ああ。やっぱりね。」
 と笑った。
 「うん?」
 「あのプレスクールの子たちだろ?」
 「え?」
 そのとき白人女性が私たちの横を通り、子どもたちに近づいて英語で何事かを話しかけた。そしてみんなで集まると、わーわーと騒ぎながら公園を出て行った。
 「…Get on、あたりなんじゃない?」
 手塚さんはそう言うと、
 「外道って…大家さん…。」
 と肩を震わせて笑っていた。
 恥ずかしさというよりも、軽く怒りを覚えた私は、ふん、と手塚さんに背中を向けて帰ろうとした。そのとき、公園の前を自転車で通り過ぎる制服の男の子と目が合った。
 「あ!」
 「あれ?」
 「たかちゃん?」
 キッと自転車を止めると、たかちゃんは言った。
 「お姉ちゃん?」
 「そう!たかちゃんだよねやっぱり!やだー、こんなに大きくなって!」
 「変わんないね、お姉ちゃんは。」
 「いやー、久しぶりだね!もう中学生になったの?」
 「そう。とっくだよ。」
 たかちゃんは、何言ってんの、と笑った。しばらく見ない間にすっかり大きくなっていたけど、その笑顔に私は、小さな頃の彼の姿を思い出した。人懐っこいこの笑顔は変わらないなあ。
 「っていうかお姉ちゃん、なんでここにいるの?」
 たかちゃんの声が裏返った。
 「帰って来たの?なんか、結婚したとか聞い」
 「た、たかちゃん!いや、うん。またそこに住んでるんだよ、うん。」
 「あ…そうなの…。」
 背後に気配を感じた。
 「近所の子かな、お姉ちゃん?」

 「あれ、たかちゃん、どうしたのそれ、怪我したの?」
 「あ、これ?…うん。」
 学校帰りだというたかちゃんを誘って、私たちは近くのカフェに入った。手塚さんは忙しいから無理しないで、と言うと、いや、今日はそうでもない、と言ってついてきた。誰なの?と当然たかちゃんが聞いてきたが、お姉ちゃんにお世話になっている者です、と手塚さんが挨拶すると、お世話になっている者?と不思議そうな顔をしていたものの、大人の事情を察したのか、それ以上は何も聞かなかった。
 「学校でね、ちょっと。」
 「痛々しいね、絆創膏が。部活で?」
 たかちゃんは手の甲に怪我をしていた。絆創膏を三枚も貼っているが、それでも擦り傷は隠しきれていなかった。
 「いや…。なんかさ!」
 「ん?」
 「うん…まあ、いいか。」
 そう言ってたかちゃんは眉間にしわを寄せ、コーヒーを飲んだ。注文するときに、ジュースにする?と聞いたけれど、コーヒーでいい、とたかちゃんは言った。ほんと、たかちゃんも大きくなったんだなあ、と思った。
 「ケンカにでも巻き込まれた?」
 コーヒーを飲みながら、横から手塚さんが言った。
 「え…。」
 たかちゃんは少し驚いたように手塚さんを見ていたが、
 「…うん。そうなんだ。」
 と言って、軽く唇を噛んだ。 

 学校で、たかちゃんの友達ふたりがケンカをしていたのだそうだ。廊下で怒鳴り声が聞こえ、びっくりして見に行くと、同級生がつかみ合いになっていた。たかちゃんが見たときは、ひとりが相手を力任せに壁に押し付けていた。驚いて止めようとすると、今度は押し付けられていた方が相手を突き飛ばした。突き飛ばされた子に巻き込まれ、たかちゃんは壁に当たり、掲示板に手をぶつけて怪我をした。そのあとも揉み合いは続き、駆けつけて来た先生に止められ、やっと収まった。
 普段は大人しい子たちだったのだという。だからケンカをしているのがその子たちだと分かったとき、たかちゃんはものすごく驚いたのだそうだ。
 「そんな子たちが、なんでケンカになったの?」
 「分からない。ふたりとも、絶対に理由を言わないんだ。」
 「そうなの?」
 「そいつら、小学校からずっと一緒でさ。ずっと仲が良くて。クラスでもあんまり目立たないやつらなんだけど、とにかくケンカなんかしてるの見たことない。優しいし…誰かがケンカしてても、遠巻きに見るのが精一杯っていうような…そういう感じの人たちなんだけど。」
 「うん。」
 「ほんと、びっくりした。大暴れ、って感じだった。俺がぶつかった掲示板も、床に落ちて壊れちゃった。壁に貼られたいろんなものもぐちゃぐちゃになって、全部取り外されたし。嵐のあとみたいだって誰かが言ってて。普段大人しいヤツほど、キレたらこんな感じになるんだよ、とかも言ってて。」
 「そうなんだ。」
 「…でもさ、俺は、そう思わないって言うか。」
 「ん?」
 「そう思えないって言うか。」
 「うん…そっか、普段は、そんな子じゃないんだもんね?」
 たかちゃんは頷いて、まあ、それもあるんだけど、と言って、何か考え込んでいるようだった。ちらっと手塚さんを見ると、手にしたコーヒーのカップに視線を落としたまま、じっとたかちゃんの話を聞いているようだった。私の視線に気づくと、ん?というような顔をした。ううん、と私は首を振った。
 「…何となくそう思ったっていうだけなんだけど。」
 少しして、たかちゃんが口を開いた。
 「すごく、下手…。」
 「下手?」
 「下手な…演技?」
 「演技。っていうと、ああ、その、ケンカが?」
 「うん。…何がって言われると分かんない。どこがどうって言えないんだけど。うーん。でもなんか変だった。」


 「刺身!?」
 手塚さんは目を見開いていた。
 「…刺身、だよね。」
 私たちは顔を見合わせた。
 数日後のことだ。たかちゃんが突然私の部屋を訪ねて来た。
 「あら、たかちゃん。どうしたの?」
 「うん。母さんが、これ持って行けって。」
 「え?…これ?」
 「公園でお姉ちゃんに久しぶりに会ったよ、また元の家に戻って来たんだって、って言ったら、これ買って来た。」
 「ど、どうして?」
 「うーん。何か分からないけど、とにかく何も言わずに持って行ってやれ、って。」
 しばしの沈黙ののち、私たちは同時に吹き出した。近所の人にどれだけ気い使われてんだよ、と手塚さんは笑った。ほんとだよね、と私は言った。
 それで私たちはビールを飲みながら、ありがたくお刺身を頂いていた。
 「刺身なんて久しぶりに食った気がする。」
 「ひとり暮らしだと、なかなか食べないよね。」
 「うん。」
 「すっごく美味しい。でも…多いよね?」
 「確かに。」
 「女子ひとりに持って行く量ではない気がするんだけど。」
 「それもウケる。」
 「うん。」
 「こういうところが下町って感じだな。」
 「そうね。みんな、変わらないな。」
 子どもの頃から、何かと近所の人たちに助けられてきた。ここに戻って来たんだな、という感じがした。
 「まあ、俺が食うから大丈夫。」
 「うん。手塚さんって、痩せてる割に結構食べるよね。」
 「そう?普通だと思うけど。」
 「体重って、何キロくらいなの?…あ、やっぱいいや。」
 「なんで?」
 「だって。私より軽かったら。」
 「さすがにそれはないでしょ。身長だって十五センチ以上は高いんじゃない?俺の方が。」
 「そっか。」
 「痩せてるっていっても別に俺、がりがりってわけでもないと思うけどね。」
 「そうなんだ。」
 「うん…見てみる?」
 固まった私を見て、手塚さんはまた笑った。
 「…あ、そうだ、たかちゃんが言ってたんだけど。」
 中学生かっていうくらいドキドキしてしまったのを悟られないよう、私は話題を変えた。
 「うん。」
 「ほら、ケンカの話、してたじゃない。」
 「友達が暴れたっていうやつね。」
 「あのあとね、学校に来なくなっちゃったらしいよ。」
 「その子たち?」
 「そう。ふたりとも来なくなったんだって。」
 「それはそれは。」
 「でね、何でか知らないけど、もうひとり、来なくなっちゃったんだって。」
 「もうひとり?」
 「そのケンカに関係あるのか分からないけど、ふたりが来なくなったのと同時に、もうひとり、学校に来なくなった子がいるんだって。」

 翌日私は、たかちゃんの家を訪ねた。刺身のお礼がてら、聞いてきて欲しいことがある、と手塚さんに頼まれたのだ。なんでそんなこと?と私は聞いたけど、まあいいから、と手塚さんは何も教えてくれなかった。良く分からなかったけれど、手塚さんに言われた通りのことを、たかちゃんのお母さんに伝えてきた。え?うん、分かったけど、とたかちゃんのお母さんは不思議そうな顔をしていた。でもそれから、あ、そうだそんなことより、元気だったの?と私の肩をポンポンと叩き、うんうん、まあ、いろいろあるからね、と頷いていた。その優しさについ、涙ぐんでしまったことは、手塚さんには秘密だ。
 その次の日の夕方過ぎになって、たかちゃんが大きな紙袋を二つ抱えてやって来た。
 「ああ、たかちゃん、悪かったね、変なこと頼んで。」
 「うん。まだ全部残ってた。」
 「そっか。良かった。」
 「でも、何でなの?何でこんなもの?」
 「さあ。私にも分からないの。」
 「ふうん。」
 「でもあの人は…うん、多分、たかちゃんとお友達のために、動いてくれてるんだと思う。それだけは、間違いないと思うよ。」
 そう言うとたかちゃんは、うん、分かった、と言って帰って行った。見送りがてら私は、たかちゃんから受け取った紙袋を三階に届けに行った。

 その週末のことだ。
 「こんにちは。」
 「たかちゃん、いらっしゃい。」
 約束の時間に、たかちゃんが手塚さんの部屋へやって来た。
 「こんにちは。」
 「あ、こんにちは…。」
 手塚さんがたかちゃんを迎え入れた。
 「手塚っていいます。」
 手塚さんはにこっとしてそう言うと、
 「よし、じゃあ行きますか。」
 と、コートを手に立ち上がった。
 「…吉野と安原の家に電話したんですけど。お母さんが出て。」
 私たち三人は並んで歩いていた。たかちゃんのことは彼が生まれたときから知っているが、いつの間にかもう、そろそろ私の身長を追い越しそうなくらい、背が高くなっていた。たかちゃんも手塚さんみたいに大きくなるのかな、とコートのポケットに手を入れて歩く手塚さんを見上げた。こんなふうにして、どんどん大人になって行くんだな。
 「ケンカした、ふたりだよね。」
 「はい。どっちも同じようなことを言ってました。学校を休み始めてから、毎日どこかへ出かけてるって。」
 「うん。」
 「お友達とケンカしてから学校に行きづらくなったみたいで、って。あんなふうにケンカをしたことなんて今まで一度もなかったから、どうしたらいいか分からなくて、様子を見てるって。」
 おおらかなご両親だな、と思った。そんな人たちに育てられた子なのだからきっと、たかちゃんが言うように、本当に穏やかでいい子たちなのだろう。
 駅を過ぎて五分ほど歩いたところで、たかちゃんと手塚さんが立ち止まった。
 「ここだね。」
 「うん。」
 ペットショップ入江、と書いてある店の前に私たちは立っていた。
 「店舗兼住宅か。」
 「入江んちは、店の裏の方から入るんだよ。」
 「うん。」
 手塚さんは店の方を少し見て、大家さん、ちょっと中見て来てくれる?と言った。うん、と私は買い物客を装って店内に入った。いらっしゃいませ、と店の主人が声をかけてきた。今は、犬を買いに来たらしい客の応対で忙しいようだ。私のことはちらりと見ただけですぐにまた後ろを向いてしまった。ぐるりと店内を回ってから、私は外に出た。
 「ご主人、いたよ。」
 「そうか。じゃあ、裏に行こう。」
 裏手に回ると、入江、と表札の出ている玄関があった。手塚さんがチャイムを押そうとすると、たかちゃんが、俺何回も来たことあるから、と言って私たちを庭の方に案内した。
 「多分、ここに居ると思う。」
 たかちゃんはそう言うと、庭に面した掃き出し窓をノックした。閉まっていたカーテンが細く開けられた。覗いていた男の子が、あ、という顔をして、それからガラリと窓が開けられた。
 「たかふみ?」
 「吉野。…安原も居る?」
 「…うん。居るよ。」
 「入江は?」
 「居る。」
 部屋の中から、もうふたり出て来た。
 「え、誰?」
 吉野、と呼ばれた男の子が、私と手塚さんに気づき、強張った表情でそう言った。
 「こんにちは、手塚といいます。」
 手塚さんは、ちらっと腕時計に目をやると、訝しげな顔をしている三人の男の子たちを見て言った。
 「もう昼だな。みんな飯食った?腹減ってない?」
 三人が顔を見合わせた。
 「とりあえず、みんなで何か食べに行こうよ。大丈夫、ごちそうするよ。うん、大人なんで。」

 私たちは、駅を過ぎて少し行ったところにあるファミレスに入った。
 中学生男子が四人に、手塚さんと私、六人掛けの席でもぎゅうぎゅうな感じだった。手塚さんは、何でも好きなもの頼んで、と彼らに言うと、自分はコーヒーをオーダーした。大家さん、ケーキでも食べる?と言うので、コーヒーだけでいい、と言うと、オーケー、と言って一緒に頼んでくれた。男の子たちはお腹が空いていたようで、ご飯頼んでもいいの?と手塚さんに聞いていた。うん、どうぞ、と手塚さんは答えた。注文した品が運ばれて来ると、話はあとでいいから、まずは食べなよ、と手塚さんは言った。それで私たちは、彼らが気持ちのいい食べっぷりでカレーやらパスタやらを平らげるのを、コーヒーを飲みながら待った。
 「さてと。」
 食事も済んで、空いた食器が下げられると、食後のジュースが運ばれて来たのを待って、
 「…じゃあ、まず最初に言っておくけど、俺は警察の人間じゃないよ。こっちのお姉さんも。」
 手塚さんはそう切り出した。警察?と私は思ったけれど、久乃の時もそうだった、とりあえず黙っておくのが吉。私は言葉を飲み込んだ。男の子たちもみんな黙っていた。手塚さんは、うんうんと頷くと、
 「とりあえず、順番に話すよ。違うところがあれば言ってくれ。」
 と言って、脱いだコートのポケットから封筒を取り出した。
 「まずは、どこから話そうかな。ああ、たかふみくんから君たちのケンカについて聞いたところからか。」
 吉野くんと安原くんが顔を見合わせた。
 「このお姉さんは、たかふみくんの近所に住んでる人だよ。俺は…まあ、お姉さんの、友達?」
 「お姉ちゃんにお世話になってる人らしいよ。」
 とたかちゃんが補足した。
 「お世話になってる人…?」
 入江くんが初めて口を開いた。
 「あ…えっと、うん、それでまあ、道でたかふみくんに会って、学校であったケンカについて聞いたんだ。」
 手塚さんが苦笑しながら言った。
 「…うん。」
 「盛大にやったみたいだね。」
 「…。」
 ふたりはうつむいた。
 「でも、たかふみくんはね、君たちが、ケンカをするような子たちじゃないって言ってた。」
 みんな、じっと手塚さんの話を聞いていた。
 「そのあと、学校に来なくなったって聞いて。ついでに、ケンカの当事者じゃない入江くんも学校に来なくなったって話を聞いてね。やっぱり何か事情があってのことだったんだろうな、と。」
 「事情?」
 とたかちゃんが聞いた。
 「うん。そうなんだ。」
 とたかちゃんを見て頷くと、また彼らに目を向け、穏やかな声で手塚さんは話を続けた。
 「たかふみくんはね、あれは演技だったんじゃないかって言ってた。」
 「演技…ですか?」
 うん、と手塚さんは微笑んだ。
 「…まあ、細かいところは省略するけど、それを聞いて俺はね、君たちに何があったのか、ひとつ、仮説を立ててみたんだ。」
 「仮説?」
 「ああ。…言いたくないことは言わなくていいよ。でも、俺のこれから話すことを聞いてくれるかな。」
 吉野くんたちは三人で顔を見合わせていた。それから手塚さんを見て、はい、と言った。ありがとう、と手塚さんは言い、笑顔を見せた。それから私を指差し、
 「このお姉ちゃんが心配していたもんだからさ。うん、余計なお世話だとは思うんだけどね。」
 そう言って私を見た。急に振られた私は、
 「え?あ、えっと、うん、そうなの。私はね、赤ちゃんの頃からたかちゃんのこと知っててね、おむつも取り換えたことあるし、よだれもすごかったから拭いてあげたりね、そんで、たかちゃんが心配してたからさ。」
 思わずテンパりそんな話をした。おむつ?よだれ?と少年たちは囁き合い、やっと少し笑顔になった。さすが、と手塚さんが私をつついた。

 「…最初に、君たちがケンカをした理由、なんだけどね。」
 彼ができるだけ優しい声で話をしようとしているのが、私には分かった。こんなことができる人なんだな。その横顔に改めて見とれてしまう。とともに、普段私に対してはまったく気を使っていないんだな、ということが分かり、嬉しいような悲しいような、複雑な気分になった。そんな私に気づく様子もなく、手塚さんは続ける。…いや、今はそんなことどうでも良かった。不安そうな、でも真剣な眼差しで手塚さんの話を聞く彼らを見て、私も崩れかかった姿勢を正した。
 「幼馴染のたかちゃんが言うように、ずっと仲が良かった君たちが突然ケンカした、っていうのが俺も気になった。」
 実際に会ってみて、私も思った。きちんと挨拶もできる、友達に気遣いもできる、穏やかないい子たちだ。
 「君たちがケンカしたってだけでも驚きなのに、大勢の人が見ているところで、その上そんな派手なケンカをしたのはなぜだろう。しかもわざわざそんなことをしておいて、なのに理由を言おうともしない。不思議だよね。理由以前に、そこが分からなかった。」
 たかちゃんが力強く頷いた。
 「それでね、『なぜケンカをしたか』を、『ケンカをしたことで何が起きたのか』っていう視点から見てみたんだ。」
 手塚さんはそう言うと、目の前の男の子たちを交互に見た。
 「吉野くんと安原くんは廊下で大暴れしたんだよね。嵐のあとみたいだ、って言ってた子もいるそうだ。君たちが暴れ回ったことで、廊下の掲示板が壊れたり、掲示物がめちゃくちゃになったりしたんだってね。」
 「…。」
 答えないふたりに、手塚さんは言った。
 「つまり、君たちの目的は、廊下の掲示物を破壊することにあった、と考えてみた。」
 ああ、それでか、とたかちゃんが手を打った。手塚さんが頷いた。
 「それで、俺はたかふみくんのお母さんに頼んで学校に話をしてもらい、君たちのお陰で剥がされることになった掲示物を見せてもらったんだ。幸いまだ捨てられていなかったから、全部借りることが出来た。」
 「え…?」
 と吉野くんたちが顔を上げた。うん、と言って、それでね、と手塚さんは続けた。
 「まず、学校からのお知らせなんかは除外していいと思った。こういうのは全家庭に配布されているものだから。この一枚を破ったところで意味はない。時間割とか、年間スケジュールなんかもそう。」
 ふたりはじっと手塚さんの話を聞いている。
 「あとは、職業調べっていうのかな。俺もやったことあるけど、周辺のお店や何かを回って、どんな仕事があるのかを調べる授業があったんだね。その調査結果を模造紙にまとめたものが全部で七枚あった。びりびりに破けてたけど。」
 そう言うと手塚さんは、先ほどコートから取り出した封筒を開き、数枚の写真を出して並べた。
 「この写真は、その模造紙に貼られていたものだ。これは…入江くんのお父さんのお店だね?」
 入江くんはその写真を見て、うっと声を漏らした。そんな彼を見て、手塚さんは一瞬迷うような表情を見せた。それから、また優しい口調のまま、静かにこう言った。
 「うん…。それで、このバックヤードで撮った写真なんだけど。…端に写っている、これは、コウモリ、かな。」
 じっと黙っていた吉野くんが、言った。
 「僕が、話します。」
 みんなが吉野くんを見た。
 吉野くんの言葉に、そうか、と手塚さんは言った。
 「ありがとう。お願い出来るかな。」
 手塚さんが吉野くんにそう言うと、彼は頷いた。そして、安原くんを見ると、いいよね、と言った。安原くんも吉野くんを見て、うん、と言った。写真をじっと見つめていた吉野くんは顔を上げて、
 「最初に気づいたのは安原です。こいつ、動物が好きなんで。」
 と言った。
 安原くんが手塚さんを見てこくりと頷いた。
 「もしかしたらこのコウモリ、密輸かも知れないって。」
 「密輸?」
 中学生からそんな言葉が出て来て、私は驚いてしまった。吉野くんは続けた。
 「サルとかコウモリの輸入は禁止されてるって聞いたことあって。…まあ、この写真だけじゃ正直、僕も安原も良く分からなかったんです。でも…。」
 そう言って吉野くんは言葉に詰まった。すると手塚さんが言った。
 「前にも同じことがあった、かな?」
 はい、と吉野くんはちょっとうつむいて言った。
 「…はい、そうです。…入江のお父さん、僕たちが小学校二年生の頃に、密輸で捕まったことがあって。だから、もしかしたらまたやったのかな、って。」
 「そっか…。」
 そういうことだったのか。
 「最初に捕まってからしばらくして、入江のお母さん、出て行っちゃって。入江、ひとりっ子だから。またお父さんが捕まったりしたらどうなるんだろう、って思って。」
 吉野くんがそう言うと、入江くんが堪え切れず、ぽろぽろと涙をこぼした。
 「だから俺、安原と相談して、誰にも気づかれないうちに、この写真を剥がそうとしたんです。一枚だけこっそり剥がしても、逆に目立っちゃうかも知れないと思って、あんなケンカをしたんです。」
 「うん。」
 「そこまでは良かったんですけど。…入江が、気づいて。」
 「そっか。」
 「それで、俺たちも写真の話をしたんです。そしたら入江、最近お父さんの様子が変だと思ってたって。それで不安になっちゃって。…いつお父さんが連れて行かれるかと思うと、家を離れられなくなったんです。それで、俺たちも学校休んで、入江のそばに居ようって。」


 私と手塚さんは、夕暮れの街を並んで歩いていた。この時間になるとかなり冷えて来る。こんなに遅くなると思っていなかったから、薄手のコートで出て来てしまった。

 ファミレスを出た私たちは、みんな揃ってまず、たかちゃんの家に行った。そしてたかちゃんのお母さんに事情を説明した。うんうん、と話を聞いていた私の懐かしい近所のおばさんは、分かった、あとは任せなさい、そう言って、ほら、そんな顔しないの、と息子たちの頭を乱暴に撫でた。それから手塚さんの部屋に戻り、テープで貼り合わせた模造紙などを取って来ると、私と手塚さん、たかちゃんのお母さんで学校へ向かった。先生方もずいぶん驚いていたが、分かりました、三人とも問題なく学校生活が送れるよう、手を尽くします、と言ってくれた。
 「…入江くんのお父さん、分かってくれるかな。」
 手塚さんは前を向いたまま、さっきから口数も少ない。
 「んー…。」
 あのあと手塚さんは、男の子たちに言った。
 「あとは大人に任せてみないか。」
 それで、まずは学校の先生や、自分の親たちに相談してみよう、ということになった。
 「…あのコウモリの件だけど。」
 「うん。」
 「あえて俺は良く調べなかった。密輸なのかも知れないし、そうじゃないかも知れない。」
 「そうなの?」
 「まあ…おそらく前者なんだろうけど。結論は出してない。あの子たちが密輸なんじゃないかって思ってるんだろうってことだけ分かれば良かったし。」
 「そっか。」
 「何て言うか、大事なのはそこじゃないと思う。」
 「ん?」
 「子どもたちが困っているときに、正常に機能するサポート体制が敷けているかってことなんじゃないかな。」

 今回、吉野くんたちは全部を自分たちで抱え込もうとした。中学生って、もう大人のようでもあるし、まだどこか子どもだったりもする。助けて、って言えないこと、言わないこともある、ということを、大人は知っておかないとならないのかも知れない。大人になりかけているから、必死で大人になろうとしているから、簡単には振り返ったり立ち止まったり出来ない、それを、知っておかなければ、そんな彼らの巣立ちを支えることは出来ないのかも知れない。

 うん、でも、と顔を上げて、
 「…まあ、たかちゃんのお母さんみたいな人もいるし。」
 と彼が言った。
 「うん。」
 「大丈夫、だと思った。」
 「そうだね。」
 そう言うと手塚さんはおもむろに自分のコートを脱いで、私に掛けた。
 「え!なんで?」
 「大家さんのサポート体制も万全です。」
 「なんで!手塚さんが寒いよ!」
 「大丈夫、俺んち、もう、すぐそこだもん。」
 「じゃあ、私んちもすぐそこってこと!」
 「そうだった。」
 そう言って、手塚さんはやっといつもの笑顔を見せた。