眩しくて目が覚めた。
時計を見る。
うん、今日は割と早く起きられた。
トーストとコーヒーを用意してテーブルに運ぶと、傍らのノートパソコンを開く。
ネットバンキングで、入出金明細を見ていた。
婚約破棄のあと、私の様子がおかしいのを見た母の慈悲で、今は家賃ナシ、光熱費ナシでここに住まわせてもらっている。その代わり、このビルの管理はやれと言われているが。とにかくそれで、無職でも何とかこの一年、生きて来られた。それは多分、ものすごくラッキーなことだった。
分かっている。
でも。
一年前の原稿料を最後に、仕事の払い込みは途絶えている。
減る一方の残高推移を眺めて、私はノートパソコンをパタンと閉じた。
以前、手塚さんのところに来ていた女性が、今日も来ているようだ。
さっき窓の外を見ていたら、たまたま彼女が来るのを見かけた。
シャツもワントーンでコーデした軽やかなパンツスーツで、まるでニューヨークの横断歩道でも渡るように、うちの前の路地を渡ってきた。
歩くたびにパンプスの踵から、光がキラキラとあふれ出しているように見えた。
彼女の周りだけ、空気が違っていた。
あんな人が、わざわざ手塚さんに会いに来てるんだ。
起きたまま、Tシャツに短パンだった私は、のろのろと着替え始めた。
「…よし、これでだいぶ片付いた。」
部屋の隅にダンボール箱を積み上げ、満足する。
前に住んでいた部屋から持って来た荷物の中には、開封しないまま一年が経ったものもあった。衣類、とか、雑貨、とか書いてあったが、それは少し前に、思い切って開封しないまま処分した。それでも何も困らなかったし、結局何を処分したのかも良く分からないままだった。荷物って、そんなもんだ。詰めたときは大事なものだと思った。価値があり、意味があるものだと思った。でも手離してしまえば、ただ身軽になるだけで、忘れていく。
スマートフォンが鳴った。
以前、仕事でお世話になっていた人からの電話だった。
「あ、はい…ええ、大丈夫です。…ああ、本当ですか?…はい、…そうですね、まずは、はい…。」
ありがとうございます、ではのちほど、とお礼を言って電話を切った。
壁の時計を見る。
よし、じゃあこんな服じゃダメだな、着替えないと。
私はもう一度クローゼットに向かった。
夕方、家に戻って来た私は着替えてから、手塚さんの部屋に行ってみた。
あの女性はもう居なかった。お客さんは?と聞くと、ああ、もうとっくに帰ったよ、と彼は言った。
ヘッドセットを被ったままの手塚さんが、頬杖をついて難しい顔をしていた。
夕日の差す部屋で、彼の周りだけがポートレイトのように止まって見えた。
今日も私はその横顔にみとれる。
こんなふうに何度彼を眺めてきたことだろう。
そんなのずるいだろうか。
次から次へ恋をして、私はどこに行きたいのだろう。
この曖昧な時間が、冷たく細い絹糸のように私に絡みついて、もう私は繭に閉じ込められる寸前だった。
彼が見えなくなる。
見えなくなる、方がいいのだろうか。
ふと、手塚さんが目だけ上げて私を見た。
その仕草に、一瞬固まってしまった。
「何?」
体温が急激に上がるのが分かった。少し遅れて、じわりと全身から汗が滲んだ。赤面する直前にものすごい速さで背を向けた私は、コーヒー、飲む?となんでもないふうを必死で装って聞いた。
「ああ…うん。」
コーヒーカップを持ってキッチンから戻った私は、部屋に入った途端、彼と目が合い、びくっとしてしまった。
手塚さんはヘッドセットを外して首に掛け、腕組みをして背もたれに体を預けた姿勢で、私を待っていた。
カップをがちゃがちゃさせている私をじっと見て、手塚さんは言った。
「…どうした?」
「え!い、いや、べ、別に。」
「…なんか変だぞ、今日は。」
ううん、何でも、すみません、と口ごもりながらコーヒーを注ぐと、手塚さんのデスクにそっとカップを置いた。手塚さんはじっと私を見たままそれを受け取り、それからかすかに頷くと、何も言わずカップに口を付けた。しばらくは、キーボードを叩く音だけが続いていた。私も黙ってコーヒーを飲んでいた。その音が止んだことに気づいたのは、どれくらい経ってからのことだろうか。
「今日は…って言うか、最近は、かな。」
手塚さんはそう言って立ち上がると、モニターの山から出て来た。そして、私を見て小さくため息をついた。それからデスクの端に浅く腰かけて、言った。
「仕事、見つかったんだろ?」
「え!」
「このところ良く出掛けてたもんな。…珍しくキレイな格好して。」
「珍しくって…。うん、まあね。」
「仕事探しに行ってたんだ?」
「そう。」
「うん…じゃあ、まあ、良かったじゃん。」
そう言って彼は笑顔を見せた。
「…そうだね。ありがとう。」
私はそう言ったきり、何も言えなくなってしまった。彼も何も言わなかった。少し俯いた横顔は、見慣れたもののようで、全然知らない顔のようでもあった。
私がこの場所に戻ってきて、一年が経った。それは、私がすべてを投げ出して引きこもっていた時間でもあり、ここで手塚さんと過ごした時間でもあった。ここに来たとき、私は空っぽだった。周りはしーんとしていて、冷たく透明な湖の底にひとりで居るような気持ちでいた。そんな場所で彼と出会った。日々顔を合わせる中で少しずつ私たちは近づいて、長いようで短い時間だったけど、たくさんの時間を一緒に過ごしてきたように思った。
「…それで、もしかして、引っ越そうとしてる?」
彼が口を開いた。意味が分かるまで、数秒かかった。
「え?」
私の驚いた顔を見て、彼は苦笑した。
「何か、急にいろいろ処分してるし。本とか。」
そう言いながら彼は腕組みをして、窓の外を見た。
「ちょっと前は冷蔵庫を買うって騒いでたけど、最近は何も言わないし。」
「うん…。」
隠そうとしていたわけではない。ただ言い出せなかっただけだ。でも、彼なら分かるんだろうな、と心のどこかでは思っていた。それで、その先は…考えてなかった。ただ、このままではいけない、という思いに急き立てられるようにして、走り回っていた。しっかりしなきゃ、もう前を向いて自分で歩けるようにならないと駄目だ、そうしないと。そうじゃないと。…そういう、私じゃないと。
「…見つかったのか?」
「ん?」
そうじゃないと、どうだというんだろう。
「住むところ。」
「…ううん、まだ。」
「そっか。」
私は、ほんとは、自分でも良く分かっていた。
結局私は、彼のことしか考えていないのだ。手塚さんで、頭がいっぱいなのだ。それが、怖くてたまらなくなった。そこから、逃げ出したくて、でも彼の傍を離れたくなくて、もうバラバラに壊れてしまいそうなのだ。ただただそんな自分が嫌だった。そんな自分をまともに見ることも出来なくなっていた。今の私は、本当の私なのだろうか。本当の私が、手塚さんを好きだと言っているのだろうか。じゃあ、元婚約者といた私は私だったの?あれは本当の私だったの?そんなふうには思えなかった。でも、そのときはそうだと思っていたのだ。それなのに間違っていた。どんな私だったら良かったんだろう。どんな私だったら、手塚さんを好きだと言えるのだろう。どんな私なら、間違えずに手塚さんを好きだと言えるのだろう。手塚さん。手塚さん。手塚さん。
「…手塚、さん…。」
「…うん。」
自分の声が、遥か遠くに聞こえた。彼の名を呼んでしまったことに気づいたのは、彼が私の前に立ち、まっすぐ私と向き合ったあとだった。そこで意識が戻ってきた。私は何をしようとしているのだろう。
「…あ…。ううん。」
それだけ言うのが精一杯だった。手にも足にも力が入らなかった。それでも必死に重い水をかき分けるようにして、私は彼の部屋を出ようとした。
瞬間、道を塞いだ手塚さんの腕に体が引っかかった。
頭の上で、彼の声がした。
「…気になるから。」
「…ごめん。」
こんなこと、こんなわがままを彼にぶつけようとしていた自分が怖くなった。恥ずかしくて恥ずかして、もう今すぐここから消えてしまいたかった。彼の腕から体を離そうともがくと、彼はぐっと力を入れて、私を押し留めた。
「…分かった。」
そして、言った。
「じゃあ、俺が言う。」
驚いて、私は彼を見上げた。
「え…?」
彼がゆっくりと私を見た。私の目を見たまま、はっきりと彼は言った。
「手塚さん、好きです。」
「…っ!?」
私は真っ白になった。
私の両肩に置かれた彼の手が、私を引き寄せたのだと思う。近づいて来る手塚さんがスローモーションで見えた。
「…そしたら俺はこう答える。」
温かいものにふわっと包まれた私は、何も見えなくなった。
「ありがとう。俺も好きだよ。」
「今日は…これでいいか。」
スニーカーを選んで履く。今日も多分、あちこち取材で歩き回ることになるだろう。肩に掛けたバッグを覗き込んで、忘れ物がないことを確認した。玄関を開けて、外に出る。鍵をかけてから、私は階段を下りていく。三階に着くと、いつものようにドアをノックした。ガチャリと音がした。ドアを開けて、
「おはよう。」
とモニターの山に向かって私は声をかけた。
「おう。おはよう。」
機材の隙間から、手塚さんが顔を出した。
「え?まさか寝てないの?」
手塚さんのぼさぼさの髪を見てそう聞くと、
「いや、少しは寝た。」
と彼は答えた。
「大丈夫?」
「うん。」
そう言って彼は伸びをした。そして、
「あ、今日遅くなる?」
と言った。
「うーん、そんなに遅くはならないよ。」
そう答えると、
「じゃあ、帰ってきたら一緒に飯でも食おう。これももうすぐ終わるから。」
と言った。
うん、分かった、じゃあ行って来るね、と言うと、うん、気をつけて、と手塚さんは言った。
この春から私は、建築関係の雑誌を出版している会社でアルバイトをしている。以前お世話になっていた先輩に紹介してもらった。小さい記事だけど、ライターの仕事も少しずつ回してもらえるようになっている。手塚さんに選んでもらったノートパソコンが、バッグの中の私の相棒になっている。
相変わらずぐるぐる考え続けて、何も答えを出せないでいる私に手塚さんは、
「分かるまで、こうしていればいいんじゃない?」
と笑った。
そして、私が三階のドアを開ける日々も続いていた。
ちょっと変わったのは、ときどき手塚さんが四階のドアを開ける日もある、というところだ。
この古ぼけたビルを出て行こうとしていたことだけど、そういう気持ちがなくなったわけでないんだけど、今はちょっと保留している。
「別にいいけど。」
って言いながら、手塚さんが何かと邪魔して来るから。住むところを探してあげるって言いながら、
「ないね。空いてる部屋、ないみたい。日本には。」
って言うから。
「空いてればいいんだけどね。ないからね、うん。」
って、そう言うから。
私も、もう少しだけ甘えさせてもらうことにした。
もう少しだけ、ここに浮かんでいたい。
また、歩き始めたから。
ちゃんと、自分で歩ける私になるから。
あなたの隣を、歩ける私になるから。
だからあと少しだけ。
私はあなたの部屋の前に立ち、今日もそのドアをノックする。
時計を見る。
うん、今日は割と早く起きられた。
トーストとコーヒーを用意してテーブルに運ぶと、傍らのノートパソコンを開く。
ネットバンキングで、入出金明細を見ていた。
婚約破棄のあと、私の様子がおかしいのを見た母の慈悲で、今は家賃ナシ、光熱費ナシでここに住まわせてもらっている。その代わり、このビルの管理はやれと言われているが。とにかくそれで、無職でも何とかこの一年、生きて来られた。それは多分、ものすごくラッキーなことだった。
分かっている。
でも。
一年前の原稿料を最後に、仕事の払い込みは途絶えている。
減る一方の残高推移を眺めて、私はノートパソコンをパタンと閉じた。
以前、手塚さんのところに来ていた女性が、今日も来ているようだ。
さっき窓の外を見ていたら、たまたま彼女が来るのを見かけた。
シャツもワントーンでコーデした軽やかなパンツスーツで、まるでニューヨークの横断歩道でも渡るように、うちの前の路地を渡ってきた。
歩くたびにパンプスの踵から、光がキラキラとあふれ出しているように見えた。
彼女の周りだけ、空気が違っていた。
あんな人が、わざわざ手塚さんに会いに来てるんだ。
起きたまま、Tシャツに短パンだった私は、のろのろと着替え始めた。
「…よし、これでだいぶ片付いた。」
部屋の隅にダンボール箱を積み上げ、満足する。
前に住んでいた部屋から持って来た荷物の中には、開封しないまま一年が経ったものもあった。衣類、とか、雑貨、とか書いてあったが、それは少し前に、思い切って開封しないまま処分した。それでも何も困らなかったし、結局何を処分したのかも良く分からないままだった。荷物って、そんなもんだ。詰めたときは大事なものだと思った。価値があり、意味があるものだと思った。でも手離してしまえば、ただ身軽になるだけで、忘れていく。
スマートフォンが鳴った。
以前、仕事でお世話になっていた人からの電話だった。
「あ、はい…ええ、大丈夫です。…ああ、本当ですか?…はい、…そうですね、まずは、はい…。」
ありがとうございます、ではのちほど、とお礼を言って電話を切った。
壁の時計を見る。
よし、じゃあこんな服じゃダメだな、着替えないと。
私はもう一度クローゼットに向かった。
夕方、家に戻って来た私は着替えてから、手塚さんの部屋に行ってみた。
あの女性はもう居なかった。お客さんは?と聞くと、ああ、もうとっくに帰ったよ、と彼は言った。
ヘッドセットを被ったままの手塚さんが、頬杖をついて難しい顔をしていた。
夕日の差す部屋で、彼の周りだけがポートレイトのように止まって見えた。
今日も私はその横顔にみとれる。
こんなふうに何度彼を眺めてきたことだろう。
そんなのずるいだろうか。
次から次へ恋をして、私はどこに行きたいのだろう。
この曖昧な時間が、冷たく細い絹糸のように私に絡みついて、もう私は繭に閉じ込められる寸前だった。
彼が見えなくなる。
見えなくなる、方がいいのだろうか。
ふと、手塚さんが目だけ上げて私を見た。
その仕草に、一瞬固まってしまった。
「何?」
体温が急激に上がるのが分かった。少し遅れて、じわりと全身から汗が滲んだ。赤面する直前にものすごい速さで背を向けた私は、コーヒー、飲む?となんでもないふうを必死で装って聞いた。
「ああ…うん。」
コーヒーカップを持ってキッチンから戻った私は、部屋に入った途端、彼と目が合い、びくっとしてしまった。
手塚さんはヘッドセットを外して首に掛け、腕組みをして背もたれに体を預けた姿勢で、私を待っていた。
カップをがちゃがちゃさせている私をじっと見て、手塚さんは言った。
「…どうした?」
「え!い、いや、べ、別に。」
「…なんか変だぞ、今日は。」
ううん、何でも、すみません、と口ごもりながらコーヒーを注ぐと、手塚さんのデスクにそっとカップを置いた。手塚さんはじっと私を見たままそれを受け取り、それからかすかに頷くと、何も言わずカップに口を付けた。しばらくは、キーボードを叩く音だけが続いていた。私も黙ってコーヒーを飲んでいた。その音が止んだことに気づいたのは、どれくらい経ってからのことだろうか。
「今日は…って言うか、最近は、かな。」
手塚さんはそう言って立ち上がると、モニターの山から出て来た。そして、私を見て小さくため息をついた。それからデスクの端に浅く腰かけて、言った。
「仕事、見つかったんだろ?」
「え!」
「このところ良く出掛けてたもんな。…珍しくキレイな格好して。」
「珍しくって…。うん、まあね。」
「仕事探しに行ってたんだ?」
「そう。」
「うん…じゃあ、まあ、良かったじゃん。」
そう言って彼は笑顔を見せた。
「…そうだね。ありがとう。」
私はそう言ったきり、何も言えなくなってしまった。彼も何も言わなかった。少し俯いた横顔は、見慣れたもののようで、全然知らない顔のようでもあった。
私がこの場所に戻ってきて、一年が経った。それは、私がすべてを投げ出して引きこもっていた時間でもあり、ここで手塚さんと過ごした時間でもあった。ここに来たとき、私は空っぽだった。周りはしーんとしていて、冷たく透明な湖の底にひとりで居るような気持ちでいた。そんな場所で彼と出会った。日々顔を合わせる中で少しずつ私たちは近づいて、長いようで短い時間だったけど、たくさんの時間を一緒に過ごしてきたように思った。
「…それで、もしかして、引っ越そうとしてる?」
彼が口を開いた。意味が分かるまで、数秒かかった。
「え?」
私の驚いた顔を見て、彼は苦笑した。
「何か、急にいろいろ処分してるし。本とか。」
そう言いながら彼は腕組みをして、窓の外を見た。
「ちょっと前は冷蔵庫を買うって騒いでたけど、最近は何も言わないし。」
「うん…。」
隠そうとしていたわけではない。ただ言い出せなかっただけだ。でも、彼なら分かるんだろうな、と心のどこかでは思っていた。それで、その先は…考えてなかった。ただ、このままではいけない、という思いに急き立てられるようにして、走り回っていた。しっかりしなきゃ、もう前を向いて自分で歩けるようにならないと駄目だ、そうしないと。そうじゃないと。…そういう、私じゃないと。
「…見つかったのか?」
「ん?」
そうじゃないと、どうだというんだろう。
「住むところ。」
「…ううん、まだ。」
「そっか。」
私は、ほんとは、自分でも良く分かっていた。
結局私は、彼のことしか考えていないのだ。手塚さんで、頭がいっぱいなのだ。それが、怖くてたまらなくなった。そこから、逃げ出したくて、でも彼の傍を離れたくなくて、もうバラバラに壊れてしまいそうなのだ。ただただそんな自分が嫌だった。そんな自分をまともに見ることも出来なくなっていた。今の私は、本当の私なのだろうか。本当の私が、手塚さんを好きだと言っているのだろうか。じゃあ、元婚約者といた私は私だったの?あれは本当の私だったの?そんなふうには思えなかった。でも、そのときはそうだと思っていたのだ。それなのに間違っていた。どんな私だったら良かったんだろう。どんな私だったら、手塚さんを好きだと言えるのだろう。どんな私なら、間違えずに手塚さんを好きだと言えるのだろう。手塚さん。手塚さん。手塚さん。
「…手塚、さん…。」
「…うん。」
自分の声が、遥か遠くに聞こえた。彼の名を呼んでしまったことに気づいたのは、彼が私の前に立ち、まっすぐ私と向き合ったあとだった。そこで意識が戻ってきた。私は何をしようとしているのだろう。
「…あ…。ううん。」
それだけ言うのが精一杯だった。手にも足にも力が入らなかった。それでも必死に重い水をかき分けるようにして、私は彼の部屋を出ようとした。
瞬間、道を塞いだ手塚さんの腕に体が引っかかった。
頭の上で、彼の声がした。
「…気になるから。」
「…ごめん。」
こんなこと、こんなわがままを彼にぶつけようとしていた自分が怖くなった。恥ずかしくて恥ずかして、もう今すぐここから消えてしまいたかった。彼の腕から体を離そうともがくと、彼はぐっと力を入れて、私を押し留めた。
「…分かった。」
そして、言った。
「じゃあ、俺が言う。」
驚いて、私は彼を見上げた。
「え…?」
彼がゆっくりと私を見た。私の目を見たまま、はっきりと彼は言った。
「手塚さん、好きです。」
「…っ!?」
私は真っ白になった。
私の両肩に置かれた彼の手が、私を引き寄せたのだと思う。近づいて来る手塚さんがスローモーションで見えた。
「…そしたら俺はこう答える。」
温かいものにふわっと包まれた私は、何も見えなくなった。
「ありがとう。俺も好きだよ。」
「今日は…これでいいか。」
スニーカーを選んで履く。今日も多分、あちこち取材で歩き回ることになるだろう。肩に掛けたバッグを覗き込んで、忘れ物がないことを確認した。玄関を開けて、外に出る。鍵をかけてから、私は階段を下りていく。三階に着くと、いつものようにドアをノックした。ガチャリと音がした。ドアを開けて、
「おはよう。」
とモニターの山に向かって私は声をかけた。
「おう。おはよう。」
機材の隙間から、手塚さんが顔を出した。
「え?まさか寝てないの?」
手塚さんのぼさぼさの髪を見てそう聞くと、
「いや、少しは寝た。」
と彼は答えた。
「大丈夫?」
「うん。」
そう言って彼は伸びをした。そして、
「あ、今日遅くなる?」
と言った。
「うーん、そんなに遅くはならないよ。」
そう答えると、
「じゃあ、帰ってきたら一緒に飯でも食おう。これももうすぐ終わるから。」
と言った。
うん、分かった、じゃあ行って来るね、と言うと、うん、気をつけて、と手塚さんは言った。
この春から私は、建築関係の雑誌を出版している会社でアルバイトをしている。以前お世話になっていた先輩に紹介してもらった。小さい記事だけど、ライターの仕事も少しずつ回してもらえるようになっている。手塚さんに選んでもらったノートパソコンが、バッグの中の私の相棒になっている。
相変わらずぐるぐる考え続けて、何も答えを出せないでいる私に手塚さんは、
「分かるまで、こうしていればいいんじゃない?」
と笑った。
そして、私が三階のドアを開ける日々も続いていた。
ちょっと変わったのは、ときどき手塚さんが四階のドアを開ける日もある、というところだ。
この古ぼけたビルを出て行こうとしていたことだけど、そういう気持ちがなくなったわけでないんだけど、今はちょっと保留している。
「別にいいけど。」
って言いながら、手塚さんが何かと邪魔して来るから。住むところを探してあげるって言いながら、
「ないね。空いてる部屋、ないみたい。日本には。」
って言うから。
「空いてればいいんだけどね。ないからね、うん。」
って、そう言うから。
私も、もう少しだけ甘えさせてもらうことにした。
もう少しだけ、ここに浮かんでいたい。
また、歩き始めたから。
ちゃんと、自分で歩ける私になるから。
あなたの隣を、歩ける私になるから。
だからあと少しだけ。
私はあなたの部屋の前に立ち、今日もそのドアをノックする。