「たった一度、交際っぽい関係を持った女性がいます。高校の時のことです。その女性にとてもよく似た人をこのビルの近くで見つけたのです」

「…………」

「彼女のことが気になるのは確かです。態度が変わったとおっしゃるなら、それはその女性を見たからだと思います。ですが、それだけです。知佳さんを傷つけるような行動はしていないし、そんな状況でもありません」

 知佳は拓斗の言葉にあいまいな微笑みを浮かべた。とはいえ拓斗はその微笑みが否定的であることを理解した。彼女は受け入れる気はないのだと。

「その方かどうか、確かめないのですか?」
「……確かめてどうするんです? 十年も経ったのに、今更」

 言いながら、高校時代、少しの間だけつきあっていたクラスメートの顔が蘇った。

 十七歳の時の顔だ。大学に入ると、次第に疎遠になり、自然消滅してしまった女性。

(茜)

 自分に自信がなくて、いつもはにかんだように微笑む少女。

 勉強に忙しくていつの間にか離れてしまったけれど、愛しいと求めた人。

 拓斗の中で色褪せ、心の奥底に沈んでしまっていた記憶が鮮やかに蘇った。

「先生、その方のことがまだお好きなんですね」
「……え」
「もしかして、初恋、とか?」

 心臓がドキンと跳ねた。

 ――初恋。

「失礼しました。高校生ですものね。ごめんなさい」
「……いいえ。否定しません。僕はずっと勉強ばかりしてきたから」

 拓斗は茫然と答えた。

 初恋、初めての恋。

 確かにそうだ、あの時、自覚していた――自らの声が胸の中に響く。

「その方を近くで見つけた……なるほど。それは気になりますね」
「正確には、近くで働いている、です」

 知佳は口を噤んだ。なるほど、それで最近、態度が変わったのか、そう思った。ただ会っただけなら、きっと拓斗の変化など気づかなかっただろう。

「声をかけるべきです」

 知佳がキッパリと言った。その力強い断言に驚き、拓斗はまっすぐ知佳の顔を見つめた。

「その方であろうがなかろうが、声をかけて確かめるべきです。でなければ、ずっと引きずりますよ」

「……でも」

「先生はすでにフリーの身です。その方が初恋の人でなくても、すでに先生は好意を寄せられている。あとは、その女性に特別な人がいないことを祈るだけです。先生の恋、応援しますので頑張ってほしいです」

「恋って、知佳さん」

「私も素敵な人を見つけたいと思います。負けませんから」

「…………」

 知佳は微笑むと立ち上がった。

「明日からは一スタッフでお願いします。ご馳走様でした」

 軽く会釈をすると、振り返ることなく店から出ていった。

 拓斗は彼女の後ろ姿を茫然と見送ったが、姿が消えると視線を天井にやった。

 婚約者が去っていったこと、
 フラれたこと、
 次期所長の座を失ったこと、
 まったく、つらいとも悔しいとも思わなかった。

 脳裏に浮かぶのは、十年も昔の出来事だ。

 高校の時のことが蘇っていた。