椅子にかけているスーツのジャケットを手に取り、にこやかに続けた。

「ご飯、いらないよね? 私ね、お隣さんから八つ橋もらって、全部食べちゃって、お腹いっぱい」

 茜は不意に口を噤んだ。

 目は健史のワイシャツ、その襟元に釘づけになった。

 当の健史が相槌を打ちながら聞いている。機嫌がいい。

 真逆で茜の中では、もくもくと黒い雲が広がり、怒りを呼んだ。

「食ってきた」
「……そうね、お菓子で満腹になったから作ってないの。助かった」

 いつも外食だ。家では食べない。

 平日、健史の夕食を作ることはない。こうやって尋ねるのはお約束事だからだ。

 茜は込み上げてくる怒りを必死でこらえ、笑顔を作り、気づかないフリをしてその場を後にした。

(島津君!)

 さっきまでシナモンの香りに満たされていた茜の鼻は、今はスーツから漂う女用の香水を感じ取っていた。

 そして脳裏にはワイシャツの襟元。茜はベージュ色の汚れがついていることを見逃さなかった。

(島津君、ごめんね、ウソついて。追及するつもりはない、なにも知らずにさっさと別れたほうがお互い傷つけずに済むなんて大見得切ってかっこいいこと言ったけど、ウソよ。ウソなの。浮気してるのよ。それも、私と仲が悪かった同僚と。知ってるの)

 ルージュはあまりにもわかりやすいので誰でも気を使う。女もつけないように気をつける。だが、ファンデーションは違う。その気はなくても脂の浮いた顔が少しでも触れれば付着してしまうのだ。そして気づき難い。

 涙が込み上げてくる。急いで風呂場に駆け込み、シャワーから飛び出す湯を顔にぶつけて誤魔化した。

 惨めな気持ちが茜を覆いつくしていた。