その日は何事もなく過ぎようとしていた。

 特に忙しそうな店でもないし、大企業の本社が多数置かれている内幸町という場所柄、客層もいい。おかしな客は少ないだろうと憶測して選んだバイト先だった。巣鴨からここまで乗り換えなく来ることができるのも便利だ。ドアトゥドアでも三十分で通える。

 だが拓斗の勤める弁護士事務所が近いというのは驚きだった。

 また来てくれるかな、もしかしてすれ違うかも、などと思いながら働き、仕事を終えて帰宅の途についた。

 茜は複雑な思いを抱きながらマンションまでの道を歩いていた。

 会いたいと思いながらも、会えば気持ちが暴走しそうで怖い。

 でも会いたい。

 堂々巡りな心にストップをかけたのは、隣に住む住人と鉢合わせした時だった。

「ちょうどよかったわ、奥さん、ちょっと」

 わずかに首を傾げながら歩み寄ると、隣の住人は満面の笑みで手にしていた包みを差し出した。

「これね、夫の妹が旅行のお土産って言って、さっき届けてくれたんですよ」

 見ると八つ橋だった。

「京都旅行ですか、いいですね」
「えぇ。でもね、実は夫が関西に出張へ行って一昨日帰ってきて、お土産に同じもの買ってきたんですよ」
「あら」
「それも二人暮らしで自分は甘いものを食べないのに二十四枚入りのを。まだ半分残っていてね」

 茜は破顔した。

「それは大変ですね」
「でしょ? 奥さん、いかがです?」

 茜は素直に礼を言い、それを受け取った。

「ありがとうございます」
「いいえぇ、こちらこそ助かりました。先月、苦労して二キロ痩せたのに、夫のお土産で元の木阿弥でしょ、そこに同じものをいただいて、目の前真っ暗ですよ。よかったわ」

 お隣さんはうれしそうに微笑んで帰っていった。

 茜も部屋に入り、もらった八つ橋の封を開けた。

「わ、美味しそう」

 箱を開けると同時にシナモンの香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、しっとりとした生地が食欲を呼んだ。インスタントのコーヒーを淹れて八つ橋を頬張った。

「ん! おいしいっ」

 八枚入りの八つ橋をぺろりと平らげる。もう一杯コーヒーを作ってホッと吐息をついた。

 満足感は心を潤し、憂さも晴れた気がする。

 茜はお腹いっぱいになって、やり残していた家事を済ませることにした。

 それから数時間後、ドアが開く音がしたので迎えに出ると、酔った健史がキッチンで水を飲んでいた。

「おかえり」

 水を飲みながら何度か首を揺らせて頷く。飲み干すと「ただいま」と続けた。

(珍しい)

 いつも返事をしないのに、今日は返した。茜は素直に喜んだ。健史も今の関係に反省したのかと期待を抱いた。