翌朝、健史を見送ったあと、茜は名刺を見つめながら思案に暮れていた。

 昨夜は怒り心頭で真剣に離婚を考えたが、頭が冷えてきたら単なるわがままなような気がするようになった。

 毎日帰りが遅い。それは確かだし、夕食もほとんど家では食べない。叩かれたのは昨夜が初めてで、手を上げるような夫ではなかった。

 たった一度のことに、DVだと叫ぶのは愚かだ。深いため息をつき、茜は手にしている名刺をテーブルに置いた。

 島津拓斗、弁護士。

 初めて恋をし、初めてキスをし、初めて体を重ねた元クラスメート。

 好きだと自覚して、わずかばかりの二人だけの時間を過ごした人。

 受験の邪魔をしないように気遣い、合格してそれぞれの学校に通うことになっても、忙しいだろうと思って自分から連絡することは避けていた。

 時間の経過と共に拓斗からの連絡は遠のき、いつしか途切れ、大学を卒業した頃には、茜の中から拓斗の存在は完全に消えていた。

 就職し、健史と出会って新しい恋に浮かれ、交際、結婚。

 三年経った今では、他人よりも遠いと思える存在になった。

 思い出の中でセピア色であっても輝いている拓斗の笑顔のほうが今の茜には近かった。

(拓斗君)

 人妻の自分が男性をファーストネームで呼ぶのはよろしくない。

 さらに十年の月日は関係を完全にリセットしている。

 だから『島津君』と呼んだが、心は今でも『拓斗君』と呼びかける。

 それが美化された思い出だとわかっていても止められない。

 今でも拓斗に対して好意的な自分がいることをしっかり自覚していた。

(医療系の弁護士を目指していたんだから、忙しくて連絡できないのは当たり前。それに私達はもともと『特別な友達』であって、恋人同士って関係を望むこと自体行き過ぎだったの。だから、当然の結果で、それでも私は幸せだった)

 好きだと言ってくれたから体を許した。

 別れないと叫んでくれたから求めた。

 だが、そこまでで止めるべきで、これ以上の期待をしてはいけないと諌め続けてきたのだ。それなのに今になって、こんな弱っている時期に再会するとは。

(やっぱり)

 好き――その言葉を茜は自ら掻き消した。

 心の中の呟きでも、言ってしまえば壊れそうで怖かった。

 目は名刺の名前に釘づけだ。

(もう一度、会いたい)

 名刺を鞄に入れると、茜は家事をこなし、軽く昼食を取って出かける準備を始めた。