拓斗は小さくかぶりを振った。

「友人の夫の素行を調査していただきたいんです。名前は……」

 言いつつ手帳を開いて一枚紙を切り離し、ペンで書き始める。

「藤本茜、二十八歳。旧姓は、榛原。豊島区巣鴨に、夫の藤本タケシ、三十歳と二人で暮らしています。勤め先はゴウダ商事、職種は経理、ポジションは主任です」

 茜からさっき聞いたことを書き終えると紙を先崎に向けた。

「タケシさんとゴウダ商事の漢字はわかりません」

 先崎はわずかな時間その紙を見つめ、やがて拓斗に顔を向けた。

「友人から相談を?」
「えぇ。浮気をしているかどうかもはっきりしていません。ひと月ぐらいを目安に張っていただけないでしょうか? 毎日遅いみたいなので、どこでなにをしているか、それを掴んでいただけたらありがたいです」
「わかりました」
「内々でお願いします」

 先崎はニコリと屈託なく笑った。

 不安を抱えてオフィスにやってくる客を安心させるには笑顔が一番。長年探偵として働き、実績を積んできた先崎のテクニックが垣間見える。

 拓斗はそう理解しつつ、彼の笑顔に安堵の気持ちを自覚した。

「一ヶ月張ります。その間に、行き先、同行者の身元、金銭の授受など、諸々キッチリ押さえて結果をご報告しますよ。なにもないことがいいのでしょうが、女性の勘は鋭いから、してるんじゃないかなと思えは、ほぼビンゴです。証拠はバッチリ押さえますからご安心ください」

「ありがとうございます」

 その後、先崎を見送ると、自席に戻って作りかけの資料に視線を落とした。

(証拠を押さえたら茜は絶対的に有利になる。慰謝料付で離婚することができる。決めるのは茜だ)

 考えつつ、離婚を望んでいる自分がいることに気づくと、深いため息をついた。

(公私混同、職権乱用で離婚を勧めるって? 最悪だな、俺。それでどうするつもりだよ。感謝してくれても、昔の関係に戻るわけじゃない。可能性は極めて低いんだ。俺は昔の面影と、幻想を追っているにすぎない。だけど、それでも……)

 茜の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 制服姿の彼女の笑顔は、やがてついさっきまで会っていた『今』の彼女の顔に変わった。

(それでもいい。俺からの連絡を待っていた時間、寂しかったはずだ。捨てられたと思って傷つきもしただろう。それをわかっていながら忙しさを理由に放置したことへの詫びが少しでもできれば)

 もう一度、笑ってほしい。

 なんの憂いもなく、ただただ笑顔を自分に向けてほしい。

 そう思った。