「どうかしましたか? トラブルでも?」
『いえ、トラブルではありません。先崎《せんざき》所長がお越しなので、なにかあればお伝えしようと思っただけです』

 先崎とは興信所の所長の名だった。

 弁護士事務所は調査に興信所を利用することが多い。懇意にしている興信所の所長が、調査結果か、あるいは途中経過を報告にやってきたのだろう。

 なにもない、と言いかけ、ハッとなった。

「今からそっちへ行きます。待っていてもらってください!」

 拓斗はスーツのジャケットをひったくると部屋から飛びだした。

 徒歩十分の所にオフィスがある。必死で走り、オフィスの扉を開けた。まだ働いている仲間たちが、息を切らせて飛び込んできた拓斗を驚いたように見ている。

「先生、そんなに急がなくても」

 戸田が呆れたように言うと、拓斗は照れを隠して「所長は?」と尋ねた。

「まだ和泉所長とお話し中です。今、お茶を入れますので」

 どうやら戸田は先崎がやってくるとすぐに拓斗へ連絡してきたようだ。

 ホワッと大きく息を吐きだすと、自席について弛めたネクタイを締め直す。そこにグラスが置かれた。

「ありがとう」

 礼を言い、一気に飲み干した。

「そんなに大事なお話でも?」
「え? あ、いや、ちょっと考え事をしていたから、なにも考えず飛びだしたんだ。それだけ」

 戸田が「あら」と言ってクスリと笑った。

「いつも冷静沈着な先生が、意外ですね。それに」
「?」
「どんな時でも、ですます口調が崩れない先生が、くだけた話し方をなさるのも意外です」
「……ぁ」
「よほど大事な考え事をなさっておられたのでしょう」

 戸田のツッコミにわずかと息をのみ、照れ隠しで「ははは、痛いな、それ」と返して「もう一杯もらえますか?」と続けた。

 それから三十分程が経ち、ようやく和泉と先崎が応接室から出てきた。拓斗は先崎に歩み寄って時間が欲しいと頭を下げ、先崎を再び応接室へ導いた。

「折り入って所長にお願いがありまして」
「島津先生からの依頼は珍しいですねぇ。ウチは医療関係って得意じゃないから」
「いえ、そうではありません。浮気調査をお願いしたいんです」

 先崎の顔が明らかに、は? というものに変わった。

「浮気、ですか?」
「そうです」
「島津先生が、ですか?」
「そうです。しかも個人的に」
「…………」
「ですから、請求は私に直接お願いします」
「それで、いかがされました?」

 個人的に頼んでくる浮気調査と聞き、先崎の口調が変わった。身内と思ったのだろう。真顔になっている。