彼は惜しむような詫びるような視線を残し、地面を蹴って駆け出す。
しかし、男は彼を追っていった。
人を殺すことへの凄まじい執念にぎらついた目は、常軌を逸している。
ぐい、と襟を掴まれた蒼くんが地面に引き倒された。
すかさず馬乗りになった男が、包丁を振り上げる。
「だめ! やめて……!」
叫ぶたび、傷口が疼いた。
どろ、と血があふれていくのが分かる。
当たり前だけれど、わたしの言葉は男に届かなかった。
獲物と見なした蒼くん以外のすべてを無視している。
意識の外側にあって、男にとっては“ないもの”に等しいのだろう。
身代わりにすらなれない。
それなら、蒼くんが手遅れになる前に早く────。
「……っ」
わたしは渾身の力を込めて舌を噛んだ。
鉄の味が広がって気持ちが悪い。
ちぎれるような鋭い痛みを気力でねじ伏せ、強く歯を立てる。
(蒼くん……)
今日のことは忘れてくれていい。
こんな結末、むしろ忘れた方がいい。
だから、どうか死なないで。
無事でいて。
お願い、間に合って────。
◇
────夢を見ていた。
繰り返す日々の中で失ったはずの、遠い幸せな記憶。
『俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと』
記憶をなくして信じられなくなったわたしが拒絶しても、彼は守ろうとしてくれた。
『……頑張ってるよ、おまえは』
前を向くきっかけをくれた。
『うまくやるんだろ? だったら、俺も遠慮しない』
理人に殺される結末を変えようともがくわたしと、一緒に戦ってくれた。
『言えんじゃん、ちゃんと』
わたしがひとりで立ち向かった結果も、ちゃんと認めてくれた。
いつも、支えてくれていた。
優しくて、勇気と自信をくれる向坂くん。
わたしの中では、それこそが彼だ。
それだけが、わたしの好きになった彼だ。
知らないうちに涙を流していた。
目を覚ますと濡れたこめかみを拭う。
やっぱり、彼のすべてが嘘だったなんて思えない。
このループにも、彼がわたしを殺すのにも、まだ知らない理由がある。
何度裏切られても結局その考えを捨てきれなかったのは、少なからず“昨日”の向坂くんに違和感を覚えたからだ。
その前にも一度、態度が変わった。
保健室でのことだ。
それから少しずつ、変化が現れ始めた。



