惑わされたくない。
傷つくのも絶望するのももう十分だ。
(でも、もしかしたら────)
「菜乃ちゃん」
振り向きかけたわたしを蒼くんが制した。
咎めるような表情を浮かべている。
「騙されないで。こっち見て」
そう言うと、手を引いて階段を下りていく。
決して強い力じゃないのに、圧を感じてほどけない。
「……っ」
それでも、つい振り返ってしまった。
わたしの目に映った向坂くんは、どこか寂しげに見えた。
1階までの階段の途中で、重たい足が止まる。
信じたい思いや彼への期待と、研ぎ澄まされた警戒心の間でわたしは板挟みになっていた。
「菜乃ちゃんさ、気持ちは分かるけど絆されちゃだめだよ」
彼の目には、わたしが向坂くんに丸め込まれそうになっているように映ったのだろう。
そんなことない、とは言い返せなかった。
実のところはそうだったかもしれないから。
見たいように見ていただけだ。
「……ごめん」
うつむきながら細い声で謝ると、蒼くんは困ったような顔をする。
記憶をなくしても、この言葉は求めていないみたいだ。
(わたし、どうしたらいいのかな……)
────以前の向坂くんを取り戻したい、と思っていた。
ちゃんと向き合えば結末は変えられると思っていた。
(そう信じることは、間違いだったのかな)
諦めない、諦めたくない、って覚悟はただの意地だったのかもしれない。
本当は最初から、選択肢はふたつしかなかったのに、ありもしない希望を信じて、ただ決断を先延ばしにしていただけだったのかもしれない。
逃げずに立ち向かえば、残酷な運命にも打ち勝てると思っていた。
けれど、そんなのは願望から来るまやかしだった。
最後の選択を避けるための言い訳に過ぎない。
命は残りわずか。
結末を決めなければいけないと、分かっているけれど。
「もう、やだ……。逃げたい」



