狂愛メランコリー


「……どうしていますぐ殺さないの?」

 ふと疑問が口をついた。

 彼にとって、完璧にわたしを殺す手筈(てはず)は整っているはずだ。
 邪魔者もいなければ、わたしの抵抗もない。

 それなのに、どうしていま生かされているのだろう。

「あ? 死に急ぐなよ。別にいつ殺そうが俺の勝手だろ」

 向坂くんは手の中のペティナイフを眺め、もったいぶるように言った。

 漠然(ばくぜん)とした違和感を覚える。

 まるで何かを待っているみたい。
 時間稼ぎでもしているような。

 何にしても、それならちょうどよかった。
 この状況から唯一逃れる手段が、わたしにはある。

 少し考えてから、慎重に口を開いた。

「ねぇ、お手洗い貸してくれない……? 少しでいいから、これほどいて」

 両手足のガムテープを指し示す。
 そういう生理現象が理由なら、無視もできないはず。

 けれど、向坂くんは懐疑的な眼差しを向けてきた。

「逃げようってのか?」

「ちがう……! 信用できないなら、ドアの前にいてくれていいから」

 必死で訴えかけた。
 ひとまず拘束を抜け出さないと、自ら命を絶つこともできない。

「……分かったよ」

 渋々ではあったけれど頷いてくれた。
 足首のテープを断ち切ると「立て」とひとこと。

 差し伸べられた彼の手を取り、わたしは言われた通りにそろそろと立ち上がった。

「手、離すなよ。目瞑ったままついてこい。俺の言葉破ったら殺す」

 淡々と脅迫され、小さく頷く。

 ふいに歯向かわれないため、そして間取りを把握されないための措置だろう。

 徹底している。まったく信用されていない。

 目を閉じて向坂くんの手を握り締めた。
 こんな状況じゃなければ、なんて思うのは何度目だろう。

 ────彼の先導でたどり着いたお手洗いの中へ入ると、素早く鍵を閉めた。

(窓は……)

 あるにはあるけれど、身体が通るほどの余裕はない。

 やっぱり、ここから逃げるのは無理だ。
 “今日”そのものから逃げるしかない。

 壁に取りつけられた収納スペースの戸を開けた。
 洗剤や掃除用具、トイレットペーパーのストックが入っている。

 中から洗剤のひとつを手に取った。
 “酸性”という文字が目に入る。