わたしが大人しくなったためか、彼は手を離して椅子に座り直した。
本当に向坂くんが運んでくれたんだ。
まさか彼が助けてくれるなんて、と驚いてしまう。
背負ってくれたのかな。横抱きにしてくれたのかな。
重くなかったかな……。
緊迫した現実を忘れて、暢気にもそんなことが気にかかった。
「ご、ごめんね、迷惑かけて。ありがとう」
いまさらながら、彼と普通に話せていることに気がついて戸惑った。
逃げられない状況なのに。
助けも期待できないのに。
「別に。……つか、大丈夫かよ? 相当具合悪そうだな」
案ずるような眼差しを注がれて、さらに困惑してしまう。
(本当、どうしちゃったの……?)
いつもの向坂くんと様子がちがう。
いや、これが本来の彼であるはずなのだけれど。
“昨日”までの向坂くんなら、この状況でわたしに手をかけないわけがないのに。
本気で心配してくれているのだろうか。
(……急にどうして?)
「平気……って言いたいところだけど」
戸惑いながら、曖昧な笑顔を浮かべる。
「強がる余裕もねぇか」
おもむろに向坂くんが立ち上がる。
カーテンの向こう側に消えたかと思うと、ほどなくして甘く華やかな香りが漂ってくる。
こちらへ戻ってきた彼は、手にしていた紙コップを差し出してくれた。
そっと身体を起こして受け取る。
「ありがとう。これって、ジャスミンティー?」
「ああ、いつも置いてある。勝手に飲んでいいって」
そんな先生の気遣いがあるなんて知らなかった。
思えば、入学してから保健室を使うのは初めてだ。
「詳しいんだね、向坂くん」
「前はよくサボりに来てたからな。センセーの話長ぇから、最近は行かなくなったけど」
彼はそう言いながら再び椅子に腰を下ろした。
────不思議と心地いい。
あたたかいジャスミンティーの温度が染みて、指先から緊張がほどけていく。
おかしいな。
わたしと彼の間には深い溝が刻まれたはずだったのに。
今日を繰り返すほど、わたしたちの距離も離れていったのに。
いまはお互いに、ループや殺しのことなんて忘れてしまったみたい。
何だかすごくほっとしていた。
(本当に向坂くんだ……)



