狂愛メランコリー


 そう認識した途端、左手首に巻いた腕時計の存在を強く意識した。
 何がなんでも奪われるわけにはいかない。

 向坂くんはそっと身を起こし、壁からも手を離した。

 息をつくように笑う。

「なわけねぇか。今回は腕時計も関係ねぇし」

(え……?)

 思わず聞き返しそうになって、すんでのところでこらえた。

「残念だったな。おまえは忘れるけど、俺はぜんぶ覚えてるから」

 いまは、恐怖よりも混乱が(まさ)っていた。
 彼の言葉に違和感が萌芽(ほうが)する。

(でもわたし、覚えてる)

 “昨日”、向坂くんにペティナイフで殺されそうになったこと。
 逃げ惑ううちに階段から落ちたこと。

 それでも、向坂くんがわたしの記憶に気づいていないとしたら────。

 きっと、新たな法則があるんだ。
 そして、それはまだ彼も知らない。

 心臓が緊張気味に重たげな音を立てた。

 理人のときと同じだ。
 向坂くんより先に法則を見つけて、自分の記憶を守らないと。

「いい表情(かお)すんじゃん。ま、何言ってるか分かんねぇよな」

 わたしの困惑と緊張を思いちがいしてくれたお陰で、隠した尻尾を掴まれずに済んだ。

「要するに、今度は俺がおまえを殺すってわけ。でも、おまえは毎日生き返るたび忘れんだよ」

「どうして……」

 もう分かっているのに、まだどこかに逃げ道を探している。

 彼がわたしを殺すことに、何か崇高(すうこう)で合理的な理由があるんじゃないか。
 そう信じたくて。けれど。

「愉しいから。それ以外ねぇだろ」

 わたしの心を踏みにじるように、向坂くんは淡々と言った。

 迷いのない澄みきった表情。
 平然と暗色を滲ませる双眸(そうぼう)がわたしを捉えて離さない。

「もういいよな? 今日はどんな死に方を選ぶ?」

「ま、待って。待ってよ……」

 なだめるように言った声は震えた。

 どうすればいいの?
 なんて言えば伝わるの?

 どんな言葉なら向坂くんに届くの……?

「待たねぇよ、諦めろ。どうせ死ぬんだから」

 無感情な声色で告げた彼の手が伸びてきた。

 終焉(しゅうえん)へといざなわれる。
 ひたひたと、死の足音が近づいてくる。

「やだ……!」