ベアトリスは慌てて立ち上がる。その拍子に、机の端に置いたインク瓶の水面が大きく揺れた。
今日は大切な舞踏会があるというのに、ついつい仕事に夢中になってしまった。
「ブルーノ様より本日はお迎えにいらっしゃれないと、先ほどご連絡がありました。舞踏会には参加されるようです」
「あら、そうなの? どうしたのかしら?」
「理由は伺っておりません」
ソフィアは首をかしげる。
「そう。分かったわ」
ベアトリスは頷く。
ブルーノとは、ベアトリスの婚約者の名前だ。コールマン侯爵家の嫡男で、ベアトリスよりも三つ年上の現在二十三歳。ずっと昔に家同士が決めた婚約者なので特に愛だの恋だのという関係はないけれど、貴族同士の結婚なんて大抵そういうものだとベアトリスは割り切っていた。
(まだ全然準備が整っていないから、直接行ってくれて助かったわ)
自分のせいで舞踏会に遅刻しては申し訳がない。ベアトリスはふわふわと広がる栗色の髪の毛に櫛を通す。その間も気になるのは、執務机に広がっている原稿だ。
(翻訳作業が終わってないけど、仕方がないわね。また今夜続きをやりましょう)
ベアトリスは気を取り直すと、原稿を揃えて机の端に寄せた。



