黒く塗りつぶされた風景に、記憶の断片が浮かんでは消える。


 つないだ手。重なる影。やさしい笑顔。耳元をくすぐる声。胸を押しつぶす息苦しさが、二人でいる時だけは嘘みたいに軽くなったこと。


 あたたかな体温の記憶は、やがて押しのけた肩の手触りへと変化する。


 落下する身体。鈍い音。悲鳴。救急車のサイレン。氷のように冷たい自分の手。意識を失う直前に、兄が「階段で足を踏み外した」と説明したことを、あとで知った。



 あの日から、どこに向かって歩けばいいのか、わからなくなった。



 取り返せない。元通りにならない。全部自分が悪いのだと自己憐憫に浸ったところで何も変わらない。受け取る力のない相手への償いなど自己満足でしかないのだと、骨身に染みて知った。


 それでも、せめて奪ったものは自分も捨てければと思った。心の中の柔らかいものを削ぎ落として、何も考えずに生きるべきだと。


 心の持ちようなんて、それこそ自己満足だ。わかっていても、他の方法が思い浮かばなかった。喜びも、怒りも、苦痛も、救いも、ひとつひとつ胸の奥底に押し込んで、自分を取り巻くものから目を背けて。


 ――――そうして、向き合うべきことから逃げていたのかもしれない。



『僕の願いは、』